エルトゥールル存命時代の彼とその配下たちに関する同時代の記録はなく、その生涯は数百年後に子孫であるオスマン家の人々が残した伝説的な記録から窺い知られるのみである。ただし、オスマン帝国第2代オルハンのワクフ寄進状に、その祖父としてエルトゥールルの名があることから、実在はしたと考えられる。
伝説によるとその父はギュンドゥズ・アルプあるいはスレイマン・シャーといい、中央アジアに住むムスリム(イスラム教徒)の遊牧集団オグズ(トゥルクマーン)のカユ部族の一派の部族長であったという。彼らオグズ諸部はセルジューク朝期以来イラン以西にたびたび侵入・移住していたが中央アジアに留まっていたスレイマン・シャーは13世紀の初め、モンゴル帝国の侵攻を避けてアム川(アムダリア川)を渡りアナトリアに逃れてルーム・セルジューク朝の保護下に入った。現在のトルコ共和国ではこのとき西を目指したスレイマン・シャーが目印としたのが西の空に浮かぶ三日月であり、それがトルコの国旗のもとになったという伝説的な物語も語られているが信憑性に乏しい。
伝説ではスレイマン・シャーはモンゴル帝国の侵攻が収まった後再び東方に帰ろうとしたがアナトリアの川を渡河中に落馬して溺死し後を継いだ息子のエルトゥールルはそのままアナトリアに留まってルーム・セルジューク朝のスルターン、カイクバード1世に仕えたという。エルトゥールルは配下の遊牧騎士を率いてアナトリア各地を転戦し、ウジ(国境地帯)のベイ(首領)に任命されてアナトリア北西部に所領を与えられ、ソユト(英語版)に住み着いた。
ソユトは東ローマ帝国と境を接する正教会支配圏とイスラム支配権の境界線近くにあり、後世の年代記の伝説的な記述によればエルトゥールルとその息子・オスマンの集団はソユトの近辺で遊牧移動生活を送りながら周辺のトゥルクマーンの首長やキリスト教徒の国境領主(アクリタイ)たちと戦ったり同盟したりしながら勢力を広げたという。
その内実については年代記では彼らが遊牧を送っていたことを伝えていたり、一方ではキリスト教徒出身者まで含む多様な出自の戦士たちからなる軍事集団となっていたことを窺わせる記述があることから古来、オスマン朝の起源を血縁を紐帯としたトルコ系遊牧部族であったとする説と多様な出自からなるガーズィー(英語版)(英: Ghazi、ジハードに従事する戦士)であったとする説があり論争になってきた。
勢力を広げたエルトゥールルの死後、後を継いだオスマン1世の時代に彼らの集団は国家と言えるほどの規模に成長しベイの国を意味するベイリク(土: Anadolu beylikleri、君侯国とも)に発展する。それが、地中海世界を覆う大帝国オスマン朝の起源となったオスマン君侯国(トルコ語版)である。

The Ottoman Ship in Japan The Frigate Ertuğrul 1890
The Ottoman Ship in Japan The Frigate Ertuğrul 1890

樫野埼灯台下に流れ着いた生存者の内、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守は応急手当を行なったが、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦である事を知った。
通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還することが出来た。その一方で残る587名は、死亡または行方不明となり、大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられた。
その後付近を航行中だった船に、大島港へ寄港してもらい、生存者2名が連絡のため神戸港に向かった。神戸港に停泊中だったドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、生存者は神戸に搬送、病院に収容された。沖村長は県を通じて大日本帝国政府に通報した。知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、義捐金・弔慰金も寄せられた。

The Ottoman Ship in Japan The Frigate Ertuğrul 1890The Ottoman Ship in Japan The Frigate Ertuğrul 1890

1985年のイラン・イラク戦争で、イラクのサダム・フセインは、イラン上空の航空機に対する期限を定めた無差別攻撃宣言を行った。各国は期限までにイラン在住の国民をメヘラーバード国際空港から軍用機や旅客機で救出したものの、日本国政府は自衛隊の海外派遣不可の原則のために、航空自衛隊機による救援ができなかった。さらに、当時日本で唯一国際線を運航していた日本航空は「イランとイラクによる航行安全の保証がされない限り臨時便は出さない」とし、在イラン邦人はイランから脱出できない状況に陥った。
野村豊イラン駐在特命全権大使が、トルコのビルレル駐在特命全権大使に窮状を訴えたところ、ビルレルは「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰もが、エルトゥールルの遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも」と答えた。ビルレルの要請を受けたトルコ航空は、自国民救援のための旅客機を2機に増やし、オルハン・スヨルジュ機長らがフライトを志願。215名の日本人はこれに分乗し、全員トルコ経由で無事に日本へ帰国できた。
この逸話は、2002 FIFAワールドカップでのサッカートルコ代表チームの活躍を機に、テレビ番組や雑誌で取り上げられた。2004年には、これを紹介した児童書が小学生高学年向けの読書感想文コンクール課題図書になった。2006年、日本政府は、イランで救出に当たったトルコ人のパイロットや客室乗務員など13人に勲章を授与し、感謝の気持ちを送った。2007年10月28日、同時期に開催されたエルトゥールル号回顧展に併せて、東京都三鷹市の中近東文化センターでこの事件に関するシンポジウムが、当該トルコ航空機の元機長、元客室乗務員、野村元駐イラン日本国特命全権大使、森永元伊藤忠商事イスタンブール支店長、毛利悟元東京銀行テヘラン駐在員ら当時の関係者出席の上で開催された。
2015年、映画『海難1890』の公開を記念して、ターキッシュ エアラインズは日本乗り入れに使用されている同社のエアバスA330型機に、当時のデザインを復元した特別塗装を施した。

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エルトゥールル号遭難事件は、日土友好関係の起点として記憶されることになった。トルコ人が公的な場で日土友好の歴史について語るとき、エルトゥールル号遭難事件が持ち出されることがあった。日本においては、遭難現場近くの串本町以外ではあまり記憶されておらず、公的な場で語られることもまれであった。近年は、まれに教科書や副読本で取り上げられることもある。
2012年2月から3月にかけて日本の外務省がトルコの民間会社に委託して行った調査によると、トルコでエルトゥールルの遭難事件を「知っている」と回答したのは29.9%だった。同じ調査で、近年の日本の経済協力案件である第2ボスポラス大橋は44.9%、マルマライ計画は52.5%だった。
事件から125年となった2015年、トルコ海軍の軍艦が下関・串本・東京の3港を訪れ、串本町で行われた追悼式典に参加した

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