④ ハラールとハラームについて

イスラーム教徒の女性が、顔や手、足以外の全身を覆うことはアッラー の命令です。クルアーンでは次のように命じられています。「信者の女 たちに言ってやるがいい。かの女らの視線を低くし、貞淑を守れ。外に 表われるものの外は、かの女らの美(や飾り)を目立たせてはならない。それからヴェ イルをその胸の上に垂れなさい」(御光章第31節)。また別の章句では次のように命 じられています。「預言者よ、あなたの妻、娘たちまた信者の女たちにも、かの女ら に長衣を纒うよう告げなさい」(部族連合章第59節)。このように覆うことはアッラー の命令であり、アッラーに対し果たすべき責務なのです。正当な理由がない限り成人 女性はこの命令に従わなければなりません。これは一方で、彼女たちを守るための予 防策でもあります。しかし、何らかの理由で頭部を覆うことができない女性は、アッ ラーに許しを乞えば覆わなくてもよいとされています。また、誰であれ女性が頭を覆っ ていない、もしくはさまざまな理由で覆うことができないからといって、宗教上の兄 弟を仲間外れにしたり蔑視したり、イスラーム教徒ではないと見なすことは正しい行 いではありません。
頭部の覆い方にはそれぞれのイスラーム教徒たちの置かれている民族的、地理的、 文化的状況の違いが反映されています。ご存じの通りイスラームは世界各地に広まっ ています。地域によって人々の好みや伝統はそれぞれ異なっています。イスラーム学 者は、覆いは体の線をあらわにすることなく、肌が透けない布であることと説いてい ます。

割礼は男性の性器の包皮の先端を切ることを意味しています。預言者 ムハンマド(彼の上に平安あれ)は割礼を行うことを奨励されています (ブハーリー、リバース62、ムスリム、タハーラ49)。割礼は預言者たち の父イブラーヒームの時代から行われてきた宗教的行為です。ユダヤ教徒たちも現 在に至るまで割礼を行っています。キリスト教では割礼は肉体的なものではなく精神 的なもの(心の割礼)と定義され、行われなくなっています。
割礼には健康面でも多くの効用があるとされています。それゆえイスラーム教徒と なった人にとって、割礼は義務ではないものの、健康上の問題がない限り年齢を問わ ず行うことが勧められています。

クルアーンとハディースで述べられている動物の肉に関する制限は、 意図的にアッラーからの恵みから遠ざけたり、その食べ物を神聖視する ことを目的としているのではありません。ハラール(許されていること)、 ハラーム(禁止されていること)と区分けする基本的な意図は、イスラーム教徒を人 間としての誉れと尊厳にふさわしい振る舞いに向かわせ、有益なことを守らせるため です。
ユダヤ教徒やキリスト教徒のように、アッラーを信じ預言者に従う真の教えに属し つつも、時間の経過とともに正しい道から遠ざかり、最後の真実の預言者であられる ムハンマド(彼の上に平安あれ)を信仰しない人々は啓典の民と名付けられています。 イスラームと近い宗教であることから、イスラーム教徒の男性はユダヤ教徒やキリス ト教徒の女性と結婚することができ、彼らの屠った動物の肉を食べることをハラール (許されていること)としました。クルアーンでは、「今日(清き)良きものがあなたがたに許される。啓典を授けられた民の食べ物は、あなたがたに合法であり、あなた がたの食べ物は彼らにも合法である」(食卓章第5節)と述べられています。クルアー ンにおける「啓典を授けられた者」とは、ユダヤ教徒とキリスト教徒を指しているこ とは明らかです。
イスラーム教徒は仏教、神道、道教、ヒンズー教、ゾロアスター教など啓典の民 ではない人によって屠られた動物の肉、またはそれらの肉が含まれた食品を食べるこ とはできません。豚肉や豚脂が含まれているものも食べることはできません。海の生 物は食べることができます。
家で用意する食べ物については、ハラールのマークある肉を選択することができま す。預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)はイスラーム教徒に対し、ハラールかハラー ムか明らかではない食べ物を避けるようにと言われています(ブハーリー、イーマー ン37)。
一般的に、以下のものを含む食品の飲食は認められていません。 豚肉、豚肉由来成分を含む食品、アッラーの名前を唱えることなく処理された牛肉 や鶏肉、洋酒、ワイン、酒精、アルコール、ラード、豚脂、動物由来のショートニン グ、ポークエキス、動物由来のゼラチン。 イスラーム教徒として定められた規範に従って教えを実践する努力をすれば、アッ ラーの援助を得ることができるでしょう。

アッラーが禁じられていることのなかには、その理由が明白にされて いるものと、されていないものがあります。しもべとして私たちの行う べきことは、禁止されている理由やその英知が人間のためになるかどう かわからなかったとしても、アッラーがハラール(許されていること)とされたもの はハラールとして、ハラーム(禁止されていること)とされたものはハラームと認め、 それを生きていく上での指針としていかねばなりません。
イスラームは宗教、生命、知性、子孫、そして財産からなる人間の5つの基本的 要素を守ることを目標としています。
酒はこの5つの中の知性を守るために禁じられました。人は酒を飲むと人格が変 わったり、暴力的になって他人を傷つけたり、命を奪うような交通事故を起こしたり、 ときには殺人まで起こすものです。さらに飲酒は肝臓病を始めとする多くの病気の原因となっています。
飲酒がハラーム(禁止されていること)であることはクルアーンに次のように示さ れています。「あなたがた信仰する者よ、誠に酒と賭矢、偶像と占い矢は、忌み嫌わ れる悪魔の業である。これを避けなさい。恐らくあなたがたは成功するであろう」「悪 魔の望むところは、酒と賭矢によってあなたがたの間に、敵意と憎悪を起こさせ、あ なたがたがアッラーを念じ礼拝を捧げるのを妨げようとすることである。それでもあ なたがたはつつしまないのか」(食卓章第90-91節)。
このように、クルアーンの章句では飲酒が社会生活に及ぼす深刻な影響、宗教生 活に及ぼす罪について言及されています。
一方で酒には効用があり過度に飲まなければ、その害を避けることができると主張 する人々もいます。しかし明記しておかねばならないことは、酒は一般的に害の方が 多く自分や他人の人生さえ狂わせかねないもので禁止した方がいいということです。 豚肉についてはクルアーンの5つの章句(雌牛章第173節、食卓章第3節・60節、 家畜章第145節)で食べることが禁止されています。食卓章第3節では、豚肉とと もに禁じられているその他の食べ物について言及した後、それら全てが「フスク」で あると述べられています。フスクとは宗教用語で「正しい道から逸れる、反抗する、アッ ラーの命令や禁止事項に従わない、罪や犯罪を行う」という意味です。
イスラームの教えで、いくつかの食べ物がハラームとされていることにはさまざま な叡智や意図があります。食べ物にまつわる禁止や制限は、人の肉体や精神の健康 維持にかかわっています。豚肉には人の心身の健康に悪い影響を与えるものが含ま れているのです。

アッラーがハラール(許されていること)とされたものには益があり、 ハラーム(禁止されていること)とされたものには害があるということ は明らかにされています。そしてアッラーの命令や禁止事項には無条件 に従わねばなりません。アッラーはアルコール飲料をハラームとされました。それが 少量だと人を酔わせないからといって、ハラームとされたことを覆すものとはなりま せん。なぜならハラームなものは、それに害があるという理由からではなく、アッラー が禁じられたがゆえにハラームだからです。預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ) は「人を酔わせるものはハラームである。多量に使用して人を酔わせるものは、少量であってもハラームである」(イブン‐マジャ、アシュリバ10)と仰せられています。 したがって何かがハラームであることを、ただその有害性と結びつけることは適切で はありません。たとえ酔わない量であってもアルコールを摂取することはイスラーム では禁じられているのです。

イスラーム学者は、クルアーンやハディース(言行録)をもとに男女が 覆うべきところを次のように規定しています。男性は膝頭からへその間、 女性はイスラーム教徒の女性の前ではへそと膝頭の間、宗教的に結婚でき ない男性に対しては顔、頭部、髪、胸元、足、脚、手、腕を除く体の各部分、宗教 的に結婚できる男性に対しては顔と手と足を除く全ての部分が覆うべきところです。

臓器や体の組織の移植については、クルアーンやハディースに明白な 規定は示されていません。クルアーンやハディースに明白な規定がなく 時代、時代で新たに直面した問題については、イスラーム学者たちがイ スラームの全体的な原則や、明らかになっている規範から類推して可能な限り答えを 出す努力を続けてきました。
周知の通り人間は誉れある存在です。アッラーは被造物の中で人間に特別の地位、 すなわち尊厳を与えられました。それゆえ通常の死亡したあるいは生きている人から 取られた体の組織や臓器を移植することは、人の尊厳にそぐわないとイスラーム学者 は判断しています。
イスラーム学者たちはさまざまなクルアーンの章句を根拠に、必要不可欠で代替案 がない場合には、禁じられている事柄を必要に応じて行うことが許されているとの結 論に達しています。例えば、母胎に生存している胎児を救うために亡くなった母親の お腹を開くこと、他の治療方法がないとき折れた骨の代わりに人工骨を置換すること、 生きている人を救うために死者の体の組織の一部を移植すること、解明されていない 病気について研究し治療が行えるようにするために、近親者の了承を得て死者の体を解剖することは許されています。イスラーム学者たちは飢えや渇きの場合と同様に、 病気のときもやむを得ない状況下では禁止されていることを行ってもいいとの許可を 出しています。また他に治療方法がない患者については、禁止されている薬物による 治療を許可しています。下記の条件における臓器や組織の移植は許されています。 -病人の生命にかかわる組織を治療するため、それ以外には治療法がないことが 専門医によって確定されていること。
-医師の判断によって、その手段によって治療できる確率が高いこと。
-腎臓のように体に2つある臓器や、部分的な肝臓の移植の場合を除き、臓器提 供者が、その処置が行われる時点で死亡していること。
-臓器提供者が生前に臓器の提供を許可していること、あるいはその人が生前に 移植を拒否していないということを前提に近親者がそれを承認していること。
-摘出される臓器や組織の対価として費用が一切支払われていないこと。
-治療を受ける患者も自らが受ける移植について了承済みであること。

イスラームはイスラーム教徒の健康や疲労回復のためにスポーツをす ることを奨励しています。預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は「強 い信者は弱い信者よりも尊い」と語られ、強くなる手段の一つとしてス ポーツを行うことを勧められています。
預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は「弓道や馬術を学びなさい」(アブー・ダー ウード、ジハード23)と命じられています。また預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ) は、妻アーイシャと2度競走し、1度目はアーイシャが預言者に勝ち、2度目はアー イシャが太っていたために負け、競走に勝った預言者が妻に「これは前回の競争の お返しだ」と言われたと伝えられています(アブー・ダーウード、ジハード61)。
力と技を競うことも預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)が自ら行われていたス ポーツの一つです。またあるハディース(言行録)では「、子どもが父親に対して持っ ている権利は、父が彼に文字を書くことを教え、水泳や弓を射ることを教えることで ある」(スユーティ、アル-ジャミーウッサウル3742)と述べられています。
今日のスポーツの多くが預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)の時代には存在 していませんでした。それゆえイスラームの命令や禁止事項に反しない全てのスポー ツが許されているということができます。実際イスラームはスポーツを観戦することよりも自らスポーツを行うことを奨励しています。
スポーツを行う際に注意しなければいけない点は、以下のようにまとめることがで きます。ボクシングのように互いに傷つけるスポーツは行わない。スポーツを行うと きにも礼拝を始めとする崇拝行為を不足なく行わなければならない。競技中、イス ラームの教えを否定するような相手を冒涜する行いや言葉を口にしたりしてはいけま せん。体を覆うという規範を尊重しなければならない。通常の休暇や余暇の範囲を 超え時間を無駄にするようなことがあってはなりません。試合が賭博の対象となって はなりません。

預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は、宗教上ふさわしくない音 楽を除き、自ら音楽を聴いたりすることを好まれ教友たちにも勧められ ていました。妻のアーイシャにより伝えられている有名なハディース(言 行録)があります。「あるときアッラーの使徒が私のそばにおられました。それから 私のそばには女の奴隷が2人いました。彼女たちは歌を歌っていました。アッラーの 使徒は寝床に横になられ、顔を反対側に向けられました。そのとき、父のアブー・バ クルが私たちのところに来て、私を叱ったのです。『アッラーの使徒のおそばでシャ イターン(悪魔)の楽器を演奏しているのか』。アッラーの使徒はアブー・バクルに 向き直られ、『彼女たちにそのまま続けさせなさい』と言われました」(ブハーリー、 イダイン3、イブン・マジャ、ニカーフ21)。
イスラームは人間が本質的に求めるものに重きを置き、飲食や性的交渉といった肉 体的欲求を満たすことをムバフ(許されたもの)と見なしています。同様に人の精神 的欲求を満たすこともムバフとされます。ただ他のムバフと同様に、その音楽がハラー ム(禁止されていること)の対象であれば、それは禁止となります。すなわちその内 容にイスラームの教えを誹謗中傷したり、イスラームがよしとしない言葉が含まれて いたり、不道徳なものが含まれていてはいけません。

イスラームでは自ら命を絶つことは大きな罪の一つです。なぜなら人 は自らの命を自由に断つ権利を持っていないからです。このことからイ スラームは、人の命を奪うことと同様、自分で命を絶つことも厳しく禁 じています。預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は「誰であれ、山から身を投 げて自殺をすれば、彼は地獄に行くことになる。地獄で永遠に山から身を投げ続ける。 誰であれ毒を飲んで自殺をすれば、彼は地獄の炎の中で、永遠に手にした毒を飲み 続ける。誰であれ、自らに刀を刺して自殺すれば、地獄で永遠にその刀を刺し続ける」 (ブハーリー、トゥッブ56)と、自殺をした人は地獄に行くと言われています。なぜ なら、生命を神聖なものと見なすイスラームは、不正に人を殺すことは全人類を殺す ことに等しいと見なし、一人の命を救うことは全人類の命を救うことと等しいと見な しているからです(食卓章第32節)。
自殺は絶望や破綻、痛みや苦しみの悲劇的な結末です。自らが試練のために現世 に送られていることを信じ、信仰の求めるところとしてアッラーを信頼し、そのこと を支えとする人は決して絶望したり悲観したりしません。苦しみや痛みや悲しみに耐 え、どのような過酷な条件下にあってもアッラーへの信仰と信頼を失わないことがイ スラーム教徒の大きな特性です。
イスラーム教徒は現世の苦しみゆえに自殺することはありません。なぜなら、信者 にとって現世の最大にして最悪の事態ですら、地獄の炎よりも恐ろしいことはないか らです。現世での困難、苦労はイスラーム教徒にとって結局は一時的なものでしかな いのです。今日、耐え難いものとされ、耐えることができない人々を自殺へと追いやっ ている出来事も、時がたてば悲しむ価値もないものであることがわかり忘れ去られる ものです。イスラーム教徒は困難の後には必ず安寧が訪れることを信じ希望を持って 生きているのです(胸を広げる章第5-6節)。
イスラームには人が絶望観にとらわれることを防ぐ重要な信仰があります。それは 来世への信仰です。イスラーム教徒は人の生が現世だけのものではなく、死後に来 世が存在することを心から信じています。したがって現世で何かを失うことが、来世 でも失うことを意味していません。逆に、現世で困難や災難に苦しむ人は、それに耐 えれば来世で大きな報奨を得ることができるのです。
先に述べたように、イスラーム教徒は人生の日々のなかで最もよく起きる事態の一つが試練であることを知っています。時にこの試練は、人に良い結果をもたらして終 わることもあれば、時に災難によって試されることもあると信じています。したがっ て直面する困難を耐え忍ぶことが最大の徳であることを心から信じています。アッ ラーが物質的、精神的な災いを人を愛でられ、いつも彼らと共におられるというこ と、忍耐の後に良い知らせがもたらされるということなどを心の支えとしているので す(雌牛章第153・155節)。

絵を描くことについては、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)か ら伝えられた一連のハディースがあります。その中の一つの伝承によれ ば、あるとき妻のアーイシャは生き物の絵が描かれたクッションを買い求めました。それをご覧になった預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は家の扉 の前に立ち、彼女を中に入れられませんでした。アーイシャは預言者ムハンマド(彼 の上に平安あれ)の顔に満足されていないしるしを見いだし、「アッラーの使徒よ、 アッラーと使徒に許しを求めます。私は何か過ちを犯したでしょうか」と尋ねました。 すると預言者は、絵の描かれたクッションを示され、「このクッションはなぜここに あるのか」と言われました。アーイシャは、「座ったり、もたれたりできるようにと、 あなたのために求めました」と答えました。それに対し預言者は「この絵を描いた人 には審判の日に罰が与えられるであろう。そして彼らに『これらの絵に生命を与えて みなさい』と言われる。生き物の絵がある家に天使は入らない」と言われました(ブハー リー、リバース95)。また別の伝承によると、イブン・アッバースをある画家が訪ね てきて、「私はこの絵を描いて生計を立ててきました。そのことがいいことか悪いこ とか教えてもらいたい」と言いました。イブン・アッバースは「、預言者ムハンマド(彼 の上に平安あれ)は、『画家は地獄にいる。アッラーは彼が描いた絵に魂を吹き込む まで、彼に罰を与えられる。魂を吹き込むことも不可能である』と言われました」と 語ったのです。画家がこの言葉に嘆き悲しむと、イブン・アッバースは続けて「もし あなたが絵を描くことを続けたいのなら、花や木など魂を持たないものを描きなさい」 と言いました(ムスリム、リバース99)。
イスラーム以前の時代のアラブ人たちは偶像を崇拝していました。自らの手で多く の偶像を造り、それを崇拝していたのです。イスラームはタウヒード(神の唯一性) の教えを守るために偶像崇拝につながるものを取り除くことに最大の注意を払ってき たのです。
結論として、現在においてはもはや絵を描くこと、絵に描かれたものを使用するこ とはタウヒードの信条に反する結果をもたらす不安はなくなり、イスラームのさまざ まな規範や道徳の原則に反していない限りハラーム(禁止されていること)ではない のです。
しかしモスクはできる限り世俗的なものから遠ざかる空間であり、崇高なるアッ ラーを崇拝し、その庇護を求める場です。したがって、その妨げとなる対象物や絵 をモスクの内部に配置したり壁面に描いたり飾ったりすることは適切なことではあり ません。

イスラームは広大な地域に広まりました。そして時がたつうちにイス ラーム教徒たちの行いに、その地域の習慣や風習、もしくは土着の宗教 が入り混じってきました。イスラームの教えにそぐわないこの種の行い は、一般的にビドゥア(逸脱)と名付けられています。ビドゥアはイスラームの教え の本質には含まれない、イスラーム法において根拠を持たない、預言者ムハンマド(彼 の上に平安あれ)のスンナ(慣行)に反する形で行われる事柄です。
迷信は現実にはそぐわない誤った信条です。アッラーは次のクルアーンの章句でこ の種の信条を固く禁じられています。「あなたがた信仰する者よ、誠に酒と賭矢、偶 像と占い矢は、忌み嫌われる悪魔の業である。これを避けなさい。恐らくあなたがた は成功するであろう」(食卓章第90節)。
今日のイスラーム社会では、残念なことに時どきビドゥアや迷信を目のあたりにす ることがあります。例えばトルコの魔除けナザール・ボンジュを身に着けること、神 聖な場所に願い事のために布を巻きつけること、墓地でローソクを灯すこと、墓廟に 願掛けをすること、歩けない子どもの足にひもを結びつけてモスクの周囲を回ること などです。ビドゥアや迷信を信じ、行うことはイスラームの教えの本質に反すること なのです。

テロのよく知られた定義の一つが、「政治的な目的を達成するために、 政府や市民、あるいは個人に対して組織的な暴力行為を行うこと」です。 イスラームの観点から、テロはどのようなものであれ認められるもので はありません。なぜならイスラームでは人の生命、尊厳、信仰、財産は不可侵のもの であると教えているからです。テロはその中でも最も価値ある人の命を標的としてい ます。クルアーンでは、「人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺 す者は、全人類を殺したのと同じである」(食卓章第32節)と述べられています。
人類への慈悲として下され、その本質に創造主を知り愛することが含まれている最 後に啓示された宗教であるイスラームの教えは、テロや不正に血を流すことなど、社 会の安定や信頼を揺るがすどのような行為も認めていません。ただしユダヤ教やキリ スト教、あるいはイスラームの歴史において、宗教がテロや暴力行為を正当化するた めに利用されてきたことは、しばしば見受けられることです。特に20世紀の最後の 4半世紀では、世界中で宗教的な熱狂が高まる風潮が見られ、宗教的行為が社会状況 に直面する中で、宗教的な意味づけを持ったテロや暴力が急増していることがわかり ます。
アッラーは全ての人に自由な意志を与えられました。その意志によって行ったこと に対して人は審判を受けるのです。そして人は何らかの過失を犯すものです。イスラー ム教徒であってもまったく罪を犯していない人はいません。例えば他の教えを信じて いる人々の中にもそういう人がいるのと同様に、イスラーム教徒の中にもアルコール 飲料を飲み、盗みを働き、利子を受け取り、うそをつき、詐欺を働く人々がいます。 しかしその罪はイスラームに帰せられるものではありません。その責任はあくまでそ の人に帰せられるものなのです。他の教えを信じる人々の中にもテロ活動を行う人が いるように、イスラーム教徒の中にもテロ活動を行う人々がいるかもしれません。し かし真のイスラーム教徒は、そうした人たちの行為を認めることは絶対にありません。 イスラームの教えに誠実なイスラーム教徒はイスラームのイメージを損なった彼らに 対し、はっきりと対立した姿勢を取るものです。
また何がテロなのか、明確にしなければなりません。テロという言葉は強い者によっ て意図的に使われることがあります。祖国が支配、占領され、生命や財産、尊厳が 失われた人々の、その生命や尊厳を守るための努力や闘いをテロと見なすことは正し くありません。今、世界で起きていることやその背景を正しく判断することが必要な のです。