① 信仰について

イスラームでは、信仰とは「アッラー以外に神は存在せず、ムハンマド(彼の上に平安あれ)はそのしもべであり、使徒であると信じること」という言葉に要約できます。クルアーンのさまざまな言葉にもとづくイスラームの信仰の基本は、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)によって次のように列挙されています。アッラーへの信仰、天使たちへの信仰、啓典への信仰、預言
者たちへの信仰、来世への信仰、カダーとカダルへの信仰です。
アッラーへの信仰アッラーへの信仰は、アッラーを、ご自身がクルアーンで語られている特性とともに信じることです。アッラーは唯一であられ、知と力、意志の持ち主であられます。アッラーに並び得るものは何もなく、比類なきお方です。崇拝するにふさわしいお方は、ただアッラーのみです。存在する全てのものはそのお方の作品です。存在する全てのものは、その存在、唯一性、そしてその特性の論拠です。クルアーンの純正章では、たいへん意味深い形で次のように語られています。
「言え、『彼はアッラー、唯一なるお方であられる。アッラーは、自存され、 お産みなさらないし、お産れになられたのではない、 彼に比べ得る何ものもない』」この章で語られているように、産むこと、産まれることはアッラーではなく、人間の特性のです。
イスラームでは、「アッラー」とは神の固有の名称です。神とは完全なる存在です。
それゆえに完全ではない存在は神ではあり得ません。例えば、神は唯一であるべきです。もし神が複数であれば、それらは決して神ではあり得ません。また神は無から有を生む創造者でなければなりません。創造することができない存在は神ではあり得ず、何らかの不足を持っている性質はけっして神には当てはまらないのです。
天使たちへの信仰イスラームの教えでは、被造物の世界とは単に目に見えるもののみで成り立っているのではありません。私たちの生物的・物理的な能力が限られたものであるゆえに見えない世界があるのであり、それはそれらが存在していないことを意味しているのではありません。私たちはこれらの被造物について多くの知識を持っているわけではなく、クルアーンの説くところによれば、天使は常にアッラーを崇拝し、アッラーが命じられたことに従い、決して反抗することのない存在です(禁止章第 6 節、蜜蜂章第50節)。天使には男女の別はありません。食べたり飲んだりすることはなく、その創造により彼らは特有の資質を持っています。また彼らは人間の形をとることができ(マリヤム章第 16 - 17 節、フード章第 69 - 73 節)、さらに天使たちはアッラーに背くことがないゆえ、その命令に背くこともありません。多くの役割を果たす天使たちの数を私たちは知ることができませんが、ジブラーイール、ミカーイル、イスラー
フィール、そしてアズラーイールの四大天使には重要な役割が与えられています。
啓典への信仰アッラーは、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)を通して啓典を下されたように、最初の人間であり預言者でもあるアーダム以降、多くの預言者たちにさまざまな啓典
を下されました。イスラームの信仰においては、これらの啓典も信じなければなりません。これらの啓典の本来の姿は、皆クルアーンのように神聖です。しかしこれらの啓典は、のちに変更や改ざんが加えられ本来の内容を保っていないのです(婦人章第46節・食卓章第13・41節)。
預言者たちへの信仰前項で述べたように、アッラーはただ預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)のみに啓示を下されたのではありません。それぞれの民に、ご自身のお言葉を伝えるため
に預言者を遣わされ、人々を正しい道へと導く役目を与えられました(雷電章第 7 節)。
したがって預言者ヌーフ、イブラーヒーム、ユースフ、ムーサー、ダーウード、イーサー、そしてその他の預言者たちも、預言者として信じなければならないのです。そしてクルアーンで告げられている通り、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は最後の預言者なのです。彼以降に預言者は遣わされていません(部族連合章第 40 節)。
預言者たちは啓示を授かったとはいえ一般の人々と同様に一人の人間です。しかし宗教的な生き方においては模範とされるべき人々なのです。
来世を信じること私たちは、いつかこの世界が終焉のときを迎え、死後、人は復活させられ信仰や行いについて問われること、そして善行を積んだ者は天国へ、悪事を重ねた者は地
獄へ送られることを信じています。
いつ、この世が終わるかについてはアッラーのみがご存じです。このときについては、クルアーンで次のように述べられています。
「彼らはそのときに就いて、あなたに問う。『それが到来するのは、何時(の日)ですか』あなたは、何によってそれを告げられようか。その終末(の知識)は、あなたの主にあるだけ」(引き離す者章第 42 - 44 節)。
世界の終焉については、また次のように語られています。「大地が激しく揺れ、大地がその重荷を投げ出し、『彼(大地)に何事が起ったのか』と人が問うとき。その日(大地は)すべての消息を語ろう。あなたの主が啓示されたことを」(地震章第 1-5節)。
すべての人間がその行いについて問われた後、不信心者が地獄に追いやられるさまは次のように語られています。
「不信者は集団をなして地獄に駆られ、到着すると地獄の諸門が開かれる。そして門番が問う。『あなたがたの間から出た使徒は来なかったのですか。(そして)主からのしるしをあなたがたのために読誦し、またあなたがたのこの会見の日のことを警告しなかったのですか』。彼らは(答えて)言う。『その通りです。そして不信者に対する懲罰の言葉が、真に証明されました』。(彼らは)『あなたがたは地獄の門に入れ。
その中で永遠に住みなさい』と言われよう。何と哀れなことよ、高慢な者の住まいとは」(集団章第 71 - 72 節)。
信者が天国に入る様子は、次のように語られています。
「また彼らの主を畏れたものは、集団をなして楽園に駆られる。彼らがそこに到着したとき、楽園の諸門は開かれる。そしてその門番は、『あなたがたに平安あれ、あなたがたは立派であった。ここに御入りなさい。永遠の住まいです』と言う。彼らは(感謝して)言う。『アッラーに讃えあれ。彼はわたしたちへの約束を果たし、わたしたちに大地を継がせ、この楽園の中で好きな処に住まわせて下さいます』。何と結構なことよ、(善)行に勤しんだ者への報奨は」(集団章第 73 - 74 節)。
カダーとカダルへの信仰カダルは、崇高なるアッラーが全てを一定の基準に基づいて定められていることを意味しています。カダーは、アッラーが意図され、定められたことがそのときが来る
と実現したり、創造されることです。当然この創造は何の理由がないものではなく、何らかの英知によるものです。しかし人々は、出来事をその全体像でとらえることができないため、何が自分にとって良いことか悪いことかをすぐに把握できません。実現した、あるいは実現するであろう全てのことは、アッラーの知識とお許し、創造にかかっているのです。人間はそれを前提に、自らの意志によって自分の行為を選択する権利を持っています。このように、人間が正しく選択できるようにアッラーから啓示が下されているのです。

啓示宗教の基本的概念の核心は、世界を創造し、英知、力、意志といった特性の持ち主であり、絶対的な存在であるアッラーにあります。全世界とそこに存在する全てのものはアッラーが創造されたのです(識別章第59節)。その創造においてはアッラーへの助力者はなく、アッラーと同位であるものは何も存在しません。創造されるときも一切の媒介を用いられません(洞窟章第51 節)。イスラームの信仰においてアッラーとはどのような存在であるかを理解するためには、「タウヒード」の信条を理解する必要があります。「タウヒード」は、信仰の基本として、絶対的な意味でアッラーの唯一性を信じることです。クルアーンは「あなた方の神は唯一の神である」(雌牛章第 163 節、食卓章第 73 節、家畜章第 19 節)、「彼はアッラー、唯一なる御方であられる」(純正章第 1 節)とタウヒードについて述べられています。
イスラームの教えの基本は、タウヒードの信条から成り立っています。用語としての「タウヒード」は、創造者と被造物の間の境界を認識することと定義されています。
この観点からタウヒードは、アッラーのあられ方、特性、なされることにおいての唯一性を、そして崇拝するに値する唯一の存在であられることを知るということを含んでいます。アッラーは創造され、導かれ、教えられ、守られ、生命を取り上げられ、復活させられ、糧を与えられ、ドゥアー(祈願)を受け入れられ、ハラール(許されていること)とハラーム(禁止されていること)の判断を下され、ただその御方のみに崇拝行為がなされ、全てを統治される御方なのです。この意味で信者は、アッラーが天と地とその間に存在する全てのものを導かれる御方であることを信じ、アッラーに何かを同等に配することはありません(詩人たち章第 24 節、蜜蜂章第 116 節、悔悟章第 30 - 31 節、集団章第 3 節)。イスラームの信条において、これは全てを導かれ統治される御方であられるという意味においてタウヒードと呼ばれます。
アッラーは、統治される御方として唯一の存在であられるのと同様に、神としても唯一であられます。なぜなら神は、信仰と崇拝行為の対象であり、深い敬意を持たれ、何よりも愛され、人がしもべとして仕える唯一の存在であられるからです。これら全ての特徴を持たれているのはただアッラーだけです。イスラームの信条において、これは神であられるという点におけるタウヒードと呼ばれます。イスラームの信条の真髄を形成する、唯一性を宣言する言葉(カリマ・タウヒード)は、アッラー以外のどの被造物も神であることは考えられないことを指摘するものです(ユーヌス章第 18節、ユースフ章第 40 節)。
イスラームの信仰においてはアッラーの美名と特性もまたタウヒードを表しています。アッラーの美名や特性が、被造物のものとは存在論的な意味で全く等しくないことを受け入れることです。同様に、その行いにおけるタウヒードの信条とは、アッラーが全てを創造された唯一の行為者であられ、その行いの全てを単独で実現されたことを示すものです。この意味でアッラーは唯一の創造主、管理し統治される御方なのです(ヤー・スィーン章第 82 節、高壁章第 54 節)。
人は誰でも、精神的に高まることを望めば、聖職者や偶像など何の媒介を必要とすることなく、直接その心と知性、そして全ての自我をアッラーに開くことができます(集団章第 43 - 44 節)。クルアーンはアッラーがたいへん慈悲深く慈愛にあふれた御方であること、そして人はアッラーとの間に誰をも介在させることなく、悔悟を行い、アッラーに許しを乞うことによって罪が清められると述べています。アッラーの慈悲は全てを包括するものなのです(高壁章第 156 節)。クルアーンの伝えるアッラーは、絶対的な公正さと比類なき慈悲の持ち主であられるのです。

視覚は、可視光線の与えるシグナルを受け取ることで可能となる感覚プロセスです。このプロセスは感覚器官の一つである目によって実現されます。ある存在を見るには、健康な視覚の器官を持っていると同時に、その存在が一定の波長を持ち、可視光線を発していることが不可欠です。これらの条件のどれかが欠けていると、このプロセスは実現しません。しかしそれは、その存在がないということを意味するものではないのです。
例えば、これまでの研究により人の目は物理的な世界における光の 2.5 パーセントしか見ることができないとされています。そもそも人類は世界の果てがどこにあるかをも知ることができません。したがって、最も精巧な機器の力を借りたとしても把握することのできないところで、あるいは次元で、他の被造物が存在しないと主張できるだけの具体的な根拠を持っていません。
何らかの存在を認めるためには、それが五感で感じられるものである必要はないのです。例えば、電線の中を通る電流それ自体を目で見ることはできません。それを写真に撮ったり、「電気とはこれである」と示したりすることはできません。しかし、電気の存在やその作用、影響力などを私たちは知っています。したがって私たちが神を認めるために、そのあり方を具体的に見せ示すことは必要ではありません。電気と同様に神の存在もまた、その技や行いから知ることができます。「神そのものをなぜ見ることができないのですか」という問いは、「電気そのものをなぜ見ることができないのですか」という問いに似ています。
神は、創造されたどのようなものにも似ておられず(そうでなければ、神とその他の存在の違いがなくなってしまいます)、存在論的に最高の段階に位置しています。
それゆえアッラーを視覚によって捉え、認識することは不可能なのです。私たちは存在論的により下位に位置する電気すら見ることができないのに、どうして最も高い段階に位置する神を見ることができるのでしょうか。
崇高なるアッラーがクルアーンでご自身について語られているように、アッラーには同じ位置に存在するものも、類似する存在も、あるいはその対極に位置する存在もありません。アッラーは創造主であられ、被造物ではありません。形を与える御方であられますが、形を持つ御方ではありません。全ての空間を統治される御方ですが、アッラーはどこかの空間に位置されるという段階よりもより崇高であられます。そのため、アッラーを見ることは不可能なのです。言い換えれば、もしこの世界で目に見えるものであれば、それは神ではあり得ないのです。もし神がはっきりと目に見える存在であるとするなら、皆義務としてその存在を受け入れ、その偉大さに頭を垂れていたことでしょう。その場合は、私たちが物事を自由に判断するために与えられた理性を持っている意味がなくなってしまいます。事実、アッラーはクルアーンで次のように語っておられます。
「それがアッラー、あなたがたの主である。彼の外に神はないのである。すべてのものの創造者である。だから彼に仕えなさい。彼はすべてのことを管理なされる。視覚では彼を捉えることはできない。だが彼は視覚そのものさえ捉える。また彼はすべてのことを熟知され、配慮されておられる」(家畜章第 102 - 103 節)。
アッラーは目に見える御方ではない一方で、その存在、唯一性、崇高さを示すものとして、この世界に多くのものを創造されました。クルアーンにはこれらを、私たちがアッラーに到達する論拠として示されています。「われは、わがしるしが真理であることが、彼らに明白になるまで、(遠い)空の彼方において、また彼ら自身の中において(示す)。本当にあなたがたの主は、すべてのことの立証者であられる。そのことだけでも十分ではないか」(フッスィラ章第 53 節)。「天と地の間には、(アッラーの唯一性や神慮に関し)如何にも多くのしるしがある。彼らはその側を過ぎるのだが、それらから(顔を)背ける」(ユースフ章第 105 節)。
一方で、クルアーンが伝えるところによると、信者は来世において、(今はまだどのような形であるか私たちの知り得ない方法で)アッラーを拝見することができるのです(復活章第 20 - 23 節)

信仰は、信条によって始まり、知識によって継続する努力が、承認と 意志決定の段階に到達することで成立します。信仰は独断的な承認では なく、理性と意志の相互の調和であり、知識を元にした承認によって成 り立つ受け入れです。
真の意味での信仰は、知識を得て思索をめぐらせた上で承認 するといったプロセスを経て成立します。何かを認め、それを真実であるとすること を意味する承認は、知識なしでは行うことはできません。真実であると認められてい る事柄について、知識なしでそれを承認することが不可能であるように、信仰にお いても、信じるべき事柄について知識を持つことなくそれを承認することは不可能で す。クルアーンでも、「だから知れ。
アッラーの外に神はないことを」(ムハンマド章 第19節)と命じられ、まず知識を得、それから信仰の段階に至っています。
この意 味は、信仰とは心の知識である、というものではありません。承認と知識は双方とも 心と知性の活動ですが、その間には違いがあります。承認は心において、人の努力 や自由意志によって生じるものであり、知識は特別な努力や自由意志がなくても存在 し得ます。
さまざまな理由で心に生じる抽象的な事柄は、信仰とはいいません。それ が信仰といわれるためには、知識よりも、意識的な服従、帰依が存在することが必要 です。
信仰が熟考を元にした知識に支えられることと、直接知識が信仰となることと は別物です。
信仰が揺らがないよう、それは必ず知識によって支えられるべきです。 これを、探求に支えられた信仰といいます。
この意味で信仰とは知識をも包括するより広い概念です。全ての信仰は同時に知 識をも含むものですが、知識は信仰ではないのです。何かを知り学ぶことは、それを 信じ、受け入れることを意味していないのです。
しかし信じたことは全て、受け入れ、 認めたことになります。一例を示せば、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)につ いて書かれた本を読んで学ぶことが知識です。彼がアッラーによって遣わされた預言 者であることを認めない限りは、この知識は信仰には至りません。信仰を信仰たらし めるものは、承認し従うことです。
また一方で、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)について正しい知識を持た ないまま彼を預言者と認めることも浅い信仰です。真の信仰は、預言者ムハンマド(彼 の上に平安あれ)について正しく十分な知識を得て、彼がアッラーによって遣わされ 任命された使徒であることを受け入れることです。
このことから知識を伴わない信仰 は浅く、表面的なものであるということができます。だから信仰箇条について十分な 知識を持ち、それらを受け入れて信仰に変えていくことが必要です。

崇高なるクルアーンは、アッラーから預言者ムハンマド(彼の上に平 安あれ)に啓示されたときのままの形で書記たちによって書き取られ、 今日までその形が維持されてきた神聖な書です。預言者ムハンマド(彼 の上に平安あれ)は人間に遣わされた最後の使徒であり、崇高なるクルアーンは、彼 を通して人類に送られた最後の神聖な呼びかけです。
啓示されたときのままの形で、一切変更されることなく現在まで伝えられていると いうことは、クルアーンにおいてのみ実現していることであり、他の啓典においては 実現していません。
ユダヤ教の律法が現在の形となったのは預言者ムーサーの時代 よりも13世紀後の西暦1世紀になってからのことです。このため律法の文書の成立、 預言者ムーサー以降の状況、現存する律法の複写がどの時期に、誰によってなされ たかという点は、学問的に論争されています。
このことは、律法に関連する諸宗教の 歴史学者たちが認めているところです。
また現存する新約聖書が預言者イーサーに よって書かれたものでないことは、キリスト教徒によっても認められています。
その 記述は預言者イーサーよりも少なくとも30年後に始まり、西暦1世紀の終わり頃完 了したとされています。
崇高なるクルアーンは、最初の人間である預言者アーダム以来、全ての預言者に よって伝えられてきた聖なる最後の啓典です。
それ以前の聖典が含んでいた基本的 な原則もそこに含まれています。クルアーンは、イスラーム以前に下された啓典も神 によるものでることを認めています。
ただしクルアーンは、イスラーム以前の聖典の 正誤の識別の基準を示し、ユダヤ教徒やキリスト教徒の信条的、道徳的な逸脱を指 摘しています(婦人章第159-161節、食卓章第72-73節)。
論争している項目に ついても言及し(蟻章第76節)、また律法の本来の姿が維持されていないことも示し ています(雌牛章第75節、婦人章第46節)。
クルアーンの章の名前の一つは「識別」です。この名称は、正誤、正邪、美醜を それぞれ区別する価値観を教えていることに由来します。
クルアーンは、それ自体の 表現を用いるなら、「いやし」と「慈悲」の源泉です。そして「光」によって人々を闇から光へと導く(雌牛章第257節)、現世と来世における幸福の唯一の媒介なので す(食卓章第16節)。
クルアーンはそのメッセージにより、被造物の主について、生と死や死後を人々に 教えています。そうすることによって、不安や精神的な混乱から人々を救います。
裏 表のある振る舞いや妬み、憎悪や敵意といった感情から自らを清めます。
またクルアー ンに示されている豊かな生き方の規範により、信仰する人々はこの世の狭小な世界か ら救われ、平安と幸福の家である天国の、無限の地平に導かれるのです(ユーヌス 章第25節)。
崇高なるクルアーンの根本的かつ重要な教えの筆頭に、タウヒード(神の唯一性) が挙げられます。
現在、世界に存在する啓典のうち、この信条を最も明白に示して いるのがイスラームの教えです。
それは偶像崇拝が広く行われ、タウヒードの信条が 多神教と混在しているという状況下で下されました。
そして、アッラーのみが神であ るという原則をもたらしたのです。
このようにして、創造主と被造物の違いが明白な 形で区別されたのです。
クルアーンには、アッラーに同位者はなく比類なき御方であ ることが、他の啓典には見られない形で宣言されているのです。
クルアーンがもたらした基本原則のもう一つのものが来世への信仰です。この信仰 は、現世での生が終わったあとから始まり永遠に続く2番目の生です。来世で人は現 世で行ったことの対価を得ます。それは神の公正が絶対的な意味で実現するのです。 現世で良い行いをした信者にとって、来世は無限の幸福、平安の家となります。
悪 事を働いてきた人間にとっては、その行いの罰を受ける場となるのです。
クルアーン 以前の啓典においても、来世への信仰については言及されています。
しかしクルアー ンほど明白に、印象的な形では表現されていません。来世への信仰は、信者の信条 と宗教的実践を伴う生き方の、まさに中心に位置しているのです。
クルアーンを否定する人々は、歴史を通して今日まで、クルアーンに匹敵するもの を示すことができずにいます。表現や様式を含め、クルアーンは人々を驚愕させるほ どの内容をもっています。まさしくそれは一つの奇蹟です。イスラーム以前の預言者 たちの奇蹟は、それぞれの時代においてのみ有効でした。だがクルアーンの奇跡は 最後の審判の日まで続くものです。 崇高なるクルアーンはそこのことを、次のように述べています。
「もしあなたがたが、わがしもべ(ムハンマド-彼の上に平安あれ)に下した啓示 を疑うならば、それに類する1章〔スーラ〕でも作ってみなさい。もしあなたがたが 正しければ、アッラー以外のあなたがたの証人を呼んでみなさい。もしあなたがたが 出来ないならば、いや、出来るはずもないのだが、それならば、人間と石を燃料とす る地獄の業火を恐れなさい。
それは不信心者のために用意されている」(雌牛章第23-24節、フード章第13節、山章第33-34節)。 崇高なるクルアーンは、ただ預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)の時代だけの ものではなく、その存在と導きは、世界が存在し続ける限り続く、時代を超えた書物 なのです。
そこには、どの時代においても普遍的な信仰、崇拝行為や社会生活に関 しての基本原則が含まれています。アラブ社会のみならず全ての人々に普遍的な書 物なのです。命令と禁止事項、規範と奨励、忠告と原則、吉報と警告、アッラーが 人間やその他の被造物について知らされた真実、知識、定義は時間の経過とともに 変化することなく、その価値はけっして損なわれることはありません(洞窟章第27節、 家畜章第115節)。
崇高なるクルアーンのもたらしたメッセージの、さらなる特徴は次の通りです。
ク ルアーンは血統や血筋、民族もしくは文化的な環境に関わりなく、全ての人類に呼び かけているものです。その意味で普遍性を持っているのです。
人の価値は生まれな がら、あるいはのちに獲得された世俗的な身分や階級によって決まるものではありま せん。それは崇高なるアッラーとの結びつきと、アッラーの道において努力をし、アッ ラーのご満悦を得ることによって自らの価値を高めていかなければならないのです。

クルアーンは、最初の人間であり預言者であるアーダム以来、歴史上 のさまざまな時代に生きた預言者たちの努力、またその民の預言者への 呼びかけに対する反応についても言及しています。またクルアーンは、 ヒジャーズ地方のアラブ人の信仰、崇拝行為、道徳、そして社会生活についても触 れています。彼らの誤った風俗、習慣を否定し、それに代わってどのような時代にお いても適応され得る基本的な原則を示しています。
クルアーンは、歴史に関する事柄についても簡潔な言葉で言及しています。とき には一つか二つの言葉で、ヒジャーズ地方のアラブ人、あるいはイスラーム以前の預 言者たちが呼びかけた民の暮らしや重要な出来事を示唆しています。クルアーンが それらの全てを詳細に語ることはそもそも不可能です。そうでなければそれは神の書 ではなく宗教史百科のようなものとなっていたでしょう。さらには、翻訳をもとにク ルアーンを学ぼうとすることは、読者を誤った結果に導くこともあり得ます。なぜな らその場合、クルアーンの簡潔な表現について言語学や歴史学の観点から掘り下げ、 研究していくことが必要となるからです。そのために、クルアーンを読むときには脚注が付いているクルアーンの訳、もしくはその必要に応じてさまざま解釈を示す文献 を参照しなければなりません。そもそも解釈が書かれた意図も、このようなクルアー ン理解の困難さを乗り越える上で読み手の助けとなることにあります。
また崇高なるクルアーンには、それ自体の様式や事柄へのアプローチ方法がありま す。例えばクルアーンでは、信仰、崇拝行為、道徳、信条、預言者、最後の審判、天国、 地獄、タウヒード(神の唯一性)、シルク(アッラーに何ものかを配すること)といっ たことが、項目別に独立した形で言及されてはいないのです。こういった項目は、さ まざまな章やページで異なった形で言及されています。それらの項目に何度も何度も 読み手の注意を引きつけ、警告や忠言を与えるという形をとっているのです。こうし た形式は、現代の読み手はあまりなじんでいません。そこで何らかの項目について、 関連するクルアーンの言葉の全てを、一つの集合体としてまとめている「テーマ別の 解釈」を活用することです。
イスラームの教えの根本的な源であるクルアーンは、読まれ、理解され、生きてい く上での規範として生活に反映されるために啓示されました。この読み、理解すると いう過程は、一定の手段をもって行われるべきです。その手段が理解されなければ、 目的に達することはないでしょう。多くの人は、崇拝行為や道徳に関するクルアーン の言葉の意味は理解できるでしょう。しかし崇拝行為の実行に関する事柄や、社会 生活に関連する一部の言葉の解釈は、特別な専門知識を必要とします。
したがって、クルアーンを理解するために努力しなければなりません。もしクルアー ンの訳を読んで、理解できない章句があれば、別の訳を読んで参考にすることもでき ます。あるいは外国語のクルアーンを参照することもできます。信頼できる知識を持っ た人が勧める、クルアーンを解釈している文献を参考にすることもできます。あるい はその章句が啓示された理由に関する伝承を読むことができます。また、そのときに は理解できなかった章句が、別の章でより理解しやすい形で述べられているかもしれ ません。だから、理解できなかったといって読むことを放棄するのではなく、読み続 けることが大事です。
さらに、クルアーンを理解する上で、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)のハ ディース(言行録)も参考になることを忘れてはいけません。スンナ(慣行)は、クルアー ンの秘められた表現を説き明かしてくれます。この例として、礼拝やザカート(喜捨)、 巡礼などを挙げることができます。私たちは礼拝をどのように行えばいいかを、預言 者ムハンマド(彼の上に平安あれ)の解説と実践から学ぶことができます。またハラー ル(許されていること)とハラーム(禁止されていること)のように日々の生活に関 する多くの事柄で、私たちは預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)の説き明かしを 必要としているのです(高壁章第157節)。

全ての預言者と同様に、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)も人 間の中から選ばれています。クルアーンは、彼が天使の預言者ではなく 人間の預言者であると強調しています(夜の旅章第93・95節)。彼はマッ カで生まれ、子ども時代を孤児として過ごし、青年時代には交易で生計を立ててい ました。たいへん質素に暮らされ、自然で謙虚な生き方をされ、他の人々と同様に結 婚され、子どもたちにも恵まれていました。40歳までは、預言者あるいは指導者と しての主張をしたことはなく、また詩人や勇者、族長もしくは金持ちでもありません でした。彼は預言者としての活動を始める前も始めてからも、世俗的なもの、ぜいた くや権力などを求めることは一切ありませんでした。預言者としての活動を始め、マ ディーナで築いた共同体の指導者となった後、つまり多くの力を得た後でも、非常に 質実な生き方を選んでいたのです。
彼は預言者となる以前には、周囲の人々から「アミーン」、すなわち「信頼できる人」 と呼ばれていました。預言者となってからは、妻アーイシャの言葉を借りるなら、「そ の御方の徳はクルアーンそのものであった」のです。クルアーンの中に示されている 誠実さ、忠義さ、自己犠牲、無私無欲の献身、信頼、優れた能力、正義、公正さといっ た多くの徳の持ち主であられたのです。クルアーンが示している徳を身につけ実践さ れ、イスラーム共同体の模範となられたのです。周囲の人々に対して、常に親切、丁 寧で、上品で理解ある態度をとられ、うぬぼれ、高慢さ、執念深さ、偽善、憎悪、背信、 不正、偽りといった悪い行いからは遠ざかっておられたのです。こうした資質から、 預言者はアッラーによって人間に遣わされた最良の模範と見なされたのです(部族 連合章第21節)。
また預言者であることから、優れた知能、知性、記憶力、そして預言者特有の判 断力を持っておられました。預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)はアッラーから もたらされた全ての啓示をそのまま人々に伝えられ、必要とあればその内容を分かり やすく解説されました。
預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)の最も本質的な特性の一つは、慈悲の使 徒であられたということです。クルアーンでは「われはただ万有への慈悲として、あ なたを遣わしただけである」(預言者章第107節)と述べられています。
預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は、生涯を通して、一切の暴力と無縁の 人でした。マッカで預言者としての活動を始めたとき、彼自身やイスラームに入信した人々に対して加えられた度重なる迫害や弾圧にもかかわらず、暴力で対抗したり 誰かを煽動したりすることはけっしてありませんでした。ひたすら耐え忍ばれたので す。その忍耐も限界に近づいたとき、信者たちを暴力にではなくマッカからマディー ナへの移住へと向かわせたのです。そしてやむをえずアッラーの許しを得て、戦いに のぞむこととなったのです(巡礼章第39節)。慈悲の使徒は、戦いをせざるをえなく なったときでも子どもや女性、老人の殺害や復讐のために敵の死体を傷つけることを 禁じられました。マッカを征服した際には、報復を禁じ、敵対していたマッカの人々 を許されたのでした。
預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)の最も本質的な特性は、彼が「最後の預言者」 であられるということです(部族連合章第40節)。神は、彼を最後の預言者として選 ばれました。預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)が遣わされたことで預言者たち の鎖は最後の輪に至り、完成したのです。最後の審判の日まで、もはやアッラーは新 たな預言者を遣わされることはないのです。

イスラームの聖典クルアーンは、アッラーからジブラーイールという 大天使を通して預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)に下された、言 葉や文章のそれぞれが「啓示」である神聖な書です。その啓示は、マッ カとマディーナで23年という歳月をかけて下されました。イスラーム教徒にとって クルアーンに含まれる全ての言葉がアッラーからのものであり、不変であることは疑 いのないことです。いくつかの言葉の読み方に多少の違いがあるものの、この14世 紀の間を通してイスラームの全地域においてクルアーンは同一です。ただ、いくつか の章句については、それがどういう意味になるか、それをどのように解釈すべきかと いう点で、異なる解釈やアプローチが存在します。信仰、崇拝行為、道徳から社会 的な人間関係まで、現世から来世のことまで、多くの異なる項目を含むクルアーンの 章句は、イスラーム教徒にとって最も重要な崇拝行為である礼拝でも唱えられます。
預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)のハディース(言行録)は、さまざまな機 会に預言者が語られた言葉、行われたことをまとめたものです。これらの言葉のいく つかは、クルアーンの啓示からのものであり、他は彼が人間である以上、完全に人間 によるものとなっています。クルアーンの言葉とは逆に、ハディースが不変のもので あるか、あるいは預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)に属するものであるかといった点については、教友たちの時代から現在に至るまで論じられてきました。さまざま な議論を経たのち、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)のものであるという結論 が出され、学者たちによって承認され、人々の行動の手本となってきました。しかし 結局のところこれらの言葉は、クルアーンの言葉ほどに絶対的で普遍的なものとは見 なされていません。なぜならハディースは、それらを見聞きした教友たちにより、異 なる内容や、異なる意味で伝承されてきたからです。ハディースはヒジュラ暦(聖遷 の行われた西暦622年を元年とする)2・3世紀に、偉大なハディース学者たちによっ てさまざまな方法でまとめられ、編纂されました。ハディースは信頼でき、不変のも のであったとしても、クルアーンの章句のように礼拝では唱えられません。

啓示宗教の信仰、崇拝行為、そして道徳の基本は本来同一だと思いま すが、時間とともにそれらは変化し、本来の形を失ってきました。それ ゆえ、基本的に啓示宗教は共通項において一致していますが、キリスト 教と最後の啓示宗教であるイスラームとの間には違いが生じています。
両者の成立過程は対照的で、イスラームの教えはクルアーンの導きによって、預言 者ムハンマド(彼の上に平安あれ)の時代にそのスンナ(慣行)も含む形で成立し ています。キリスト教は、教会と弟子たちによって預言者イーサーよりも後の時代に 成立しているのです。
この二つの宗教の間の最も明白な相違点は、神への信仰において見られます。イ スラームは神について、親戚、子ども、同等者、そして一切の共同作業者を持たない、 唯一の存在であるアッラーという考え方を持っています。この意味で、アッラー以外 に救い主は存在しないのです。イスラームのタウヒード(神の唯一性)は、崇高なる アッラーは唯一の存在であり、崇拝されるべき唯一の存在であるとしています。その ことにより、イスラーム教徒は神との間に何者も介在させることなく、崇拝行為を直 接アッラーに捧げるようになったのです。キリスト教は、当初は唯一神信仰だったも のの、特定の宗派を除き、短期間のうちに、多くの人々が異なる見解を持つようにな りました。キリスト教における神の信条は、父と子と聖霊という三つの要素として表 現されます。イーサーは神の息子、魂、そして言葉と見なされています。さらに、神 について用いられる「父」という言葉は、その死や後継者を思わせるものとなります。
この二つの宗教の間のもう一つの重要な相違点は、預言者についての信条にあります。イスラームでは、預言者はアーダムから始まりムハンマド(彼の上に平安あれ) によって終わりを告げています。だからこそ、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ) は、神の導きを伝えるアッラーの最後の使徒なのです。キリスト教においては、預言 者イーサー以前の、アーダムからユーヌスに至る全ての預言者が認められているもの の、ムハンマド(彼の上に平安あれ)が預言者であることは認められていません。な ぜならキリスト教における預言者のあり方は、イーサーとともにその性質を変えてし まったからです。つまり、イーサーが神になったことにより、その預言者としての務 めはイーサーの弟子たちによって引き継がれると信じられているからです。
この二つの宗教に共通して、世界が終わりを迎え、最後の審判があり、来世での 生が始まるという信仰があります。一方で細かい部分については相違点もあります。
二つの宗教の間の崇拝行為に関する基本的な相違点は以下の通りです。イスラー ムでは、宗教上、思春期を迎えたイスラーム教徒の義務とされる礼拝、断食、ザカー ト(喜捨)、巡礼といった崇拝行為があります。キリスト教の崇拝行為はイスラーム の崇拝行為とは異なっています。例えば、キリスト教にはイスラームのように時間が 定められている崇拝行為はありません。キリスト教における崇拝行為は、神を讃える 讃美歌を歌うことなどです。カトリックでは、「聖体拝領」と呼ばれる、パンとブド ウ酒などの物質を媒介とした神性との交わりがあります。イスラームでは、一定の時 間に定められた1日に5回の義務の礼拝と、イスラーム教徒の意志に任された義務 ではない礼拝があります。キリスト教では断食は義務ではありません。イスラーム教 徒は、毎年ラマダーン月(ヒジュラ暦の9月)の1か月間を通して、断食を行ってい ます。この間、毎日、日の出から日没まで、一切の飲食を断ち、性交渉も行いません。
またイスラームでは、全ての子どもは清らかな、罪のない状態で生まれてきます。 キリスト教では人は原罪を負って生まれてきます。イスラームでは罪の許しを求める 人は、直接アッラーに許しを求めます。そのため、イスラームでは罪の告白を行うと いう制度はありません。キリスト教では、信者は神父に懺悔をします。しかし神父は 罪を犯した人に、神の許しの希望を与えて慰めることはできますが、神が許されるか どうかに言及することはできません。イスラームでは、アッラー以外に罪を許すこと のできる権限を持つ存在はいないのです。なぜなら罪を許す権限は、私たちの心に 秘められたものをご存じであられるアッラーにのみ属するものだからです。

イスラームの最も根本的な原則はタウヒード、つまりアッラーの唯一 性を認めることです。タウヒードは全てを包括する原則です。例えば、 この世界は完全なる秩序と均衡の上に成り立っています。それが永遠に 持続していくためには、創造主が唯一であることが論理的に必要となります。銀河や 太陽系がある秩序のうちに存在し、惑星が互いに衝突することなく動いていることは、 唯一の統治者、唯一の力、唯一の創造主の存在を示唆しています。
一方で、地球と太陽や月との関係、海中での生物の驚異的なあり方、空気中に放 出される酸素の量といったあらゆることは、全てが唯一の統治者の力によって調えら れているのです。クルアーンでは次のように記されています。「もし、その(天地の) 間にアッラー以外の神々がいたならば、それらはきっと混乱したであろう。それで玉 座の主、彼らが唱えるものの上に(高くいます)アッラーを讃えなさい」(預言者章 第22節)。
実際、アッラーは崇高であられ、何者にも似ておらず、不足を示す全ての特性か らかけ離れた御方なのです。そうでなければ、複数の、さらには無数の神の存在が 必要となってしまいます。神は絶対的な力の持ち主であられ、世界はその統治を受 けているのです。もし世界に複数の神が存在すれば、この世界は自然界の法則です らその秩序を維持して機能することは不可能となっていたはずです。例えばある神が 望む事象を、他の神は望まなかったでしょう。実際には、自然界の動きには明らかに ある秩序と完全さが存在します。この世界における全ての事象は、偶然に、自ら生 じたのだと主張することが果たして論理的でしょうか。アッラーが唯一存在されてい るからこそ、この世界の調和のとれた秩序は、創造された瞬間から一切の不足なく維 持され続けてきたのです。
唯一神信仰(タウヒード)が、この世界の実情に即したものであることを認めるこ とはけっして難しいことではありません。タウヒードを信仰の中心に置くイスラーム の教えを受け入れる人の数は、歴史を通して増加の一途をたどっており、今日におい てもその数は増え続けています。

アッラーは人間を、タウヒードの信条を受け入れることのできる本質 を持つものとして創造されました。その例として、クルアーンには預言 者イブラーヒームの話が紹介されています(家畜章第74-82節)。彼 はアッラーを見出すために理性を用い、この世界を注意深く観察しています。さらに クルアーンは、アッラーのお力と崇高さを示すのと同じくらい多くの章句で、地上と 天を注意深く観察するように命じています。存在や無、因果応報などについて深く考 える人々に新たな視野を獲得させます。例えば、「私はなぜ存在するのか。なぜ創造 されたのか。なぜ人間は全ての被造物よりも優れているのか。なぜ人間は意識を持っ ているのか。この人間の優位性に伴う責任はないのか。世界が存在する意図は何か。 人は他の動物のように飲み食いして性交渉を行い、無責任な娯楽や消費といった単 純な生活を送るだけで十分なのか。価値を加えるような行為とは何だろうか。私は死 んだらどうなるのか。死によって全てが終わるなら生きることには何の意味があるの か。私の中にある善行を施したいという気持ち、良いもの、素晴らしいもの、価値の あるものを好む思いはどこから来るのか」といった問に対する答えを求めることがで きます。
先入観を持つことなく真摯に考えをめぐらせば、アッラーは人に正しい道を示され、 信仰において彼を助けられるでしょう。崇高なるアッラーはハディース(言行録)で、 そのことを明白に約束されています。「しもべが私に1カルシュ近づけば、私はしも べに1ズィラ(2カルシュ)近づこう。しもべが私に歩いてくれば、私は彼に走って いこう」(ブハーリー、タウヒード15)。

イスラームは、単に信条や道徳を説く教えではなく、人間の生き方全 体を包括する価値観の集大成なのです。もちろん良い行い、有益なこと、 有意義な事柄の実践を求めています。
イスラームにおいては、全ての学者たちは信仰と崇拝行為が一つになることの重要 性について一致した見解を持っています。信仰を守るとは、ファルドを実行し、ハラー ム(禁止されていること)を避けることに関わっています。イスラームの信仰は、シ ルク(アッラーに何ものかを配すること)以外の全ての罪は、崇高なるアッラーが許 されます(婦人章第116節)。さらに、シルクを行った人でも死ぬ前に悔悟しイスラー ムに入信すれば、崇高なるアッラーは彼をも許されることでしょう。
シルクを除く大きな罪を犯したイスラーム教徒は、「罪を犯した信者」と名付けら れます。信仰の本質は、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)がアッラーからもた らされた事柄を心から受け入れることです。人が犯した罪は、信仰の本質である心 による受容が続いている限り、人を信仰の範疇から抜き出すことはできず、不信心に 追い込むこともありません。このような人が死んだ場合も、永遠に地獄にとどめられ ることはありません。その罪に見合った罰を受けたのち天国に行くのです。信仰の本 質が心による承認であることについては、クルアーンの多くの章句で言及されていま す(食卓章第41節、部屋章第14節)。
イスラームの最低条件が心による承認であったとしても、信仰の維持は、人が道 徳的に成熟し、アッラーに従うことによって支えられます。なぜならイスラームに入 るということは、その全ての教えを受け入れることだからです。イスラームが個人に 求めるものは、ファルドを実践しハラーム避けることです。しかし誰かをイスラーム 教徒と呼ぶ上では、彼がイスラームの命令に従っているかどうかが判断基準とはされ ません。そのため義務である一部の行為を実践しなかったというだけで、その人がイ スラームを放棄したことにはなりません。信者は、礼拝し、喜捨を行い、巡礼するが ゆえに信者と呼ばれるのではないのです。信仰しているがゆえに、これらの崇拝行為 を実行するのです。この違いは明確に区別されなければなりません。なぜなら、行為 はあくまで信仰の結果だからです。
信仰を持っているにもかかわらず、怠惰であるがゆえに、あるいは自分の欲望に負け崇拝行為を実行しなかった人は、そのために信仰をなくすことはありません。この ような人の定義は「罪を犯した信者」なのです。アッラーは罪を犯したしもべたちを、 お望みにより許され、またお望みにより罰せられます。信仰告白の言葉を述べた人が、 犯した罪の罰を受けたのちに天国に行くことに関しては多くのハディース(言行録) があります。
一方で、信者は、注意深くファルドを実行し、ハラームを避けなければなりません。 罪を犯したり何かをしなかった場合には、誠実さを持ってアッラーにドゥアー(祈願) し、許しを求めなければいけません。要するに信者は、アッラーがハラームと仰せら れたものをハラームとみなさず、ハラール(許されていること)だと仰せられたもの をハラールと認めず、あるいはファルドであるものを怠慢から実践していなければ、 罪を犯した信者とされるのです。だからその人は罪を悔悟し、その怠慢さを改めねば ならないのです。なぜなら信者としての理想は、信仰と行為の双方を身につけている 信者となることだからです。

信仰の維持とは行為を継続して行うことに結びついたものです。イス ラームでは考えや思いの段階でとどまっているだけでは、信仰としては 不十分です。精神世界で輝いている信仰の光がより強く周囲を照らし、 その存在を保っていくことが崇拝やアッラーへの服従といった行為の継続性に結び 付けられます。
神が定められたことや禁じられたことに従うことは、信仰を強め同時に信者を来世 での罰から救い、永遠の幸福に至らせる要因となります。イスラームを信じることの 最低条件は、アッラーからもたらされた教えを心から受け入れることですが、信仰の 継続的な維持は崇拝行為の実践にかかっています。完全な信仰を持ちながらも教え の規定や禁止事項を実践しなければ、教えから追放されることはないとしても、信仰 の一端にとどまってしまうものとなります。

イスラームの教えの最も根本的な原則の一つは、アッラーは人の行い を、そのニーヤ(意志)に注目して評価されるという点にあります。も う一つの原則は、人の信仰が疑いや不信、そしていろいろな見せかけを 含まず、心からのものであるという点にあります。したがってイスラームを宗教とし て受け入れイスラーム教徒となる人は、その点に誠実でなければなりません。世俗的 な利益のためにイスラーム教徒になったり、入信後、目的を果たしたからといって入 信前の状態に戻ることは偽善です。
イスラームの考え方では、人は「信者」「不信心者」「偽信者」という三つのタイプ に分かれます。イスラーム教徒ではなく、そのことを隠していない人は「不信心者」 です。しかし、イスラーム教徒ではないのに、イスラーム教徒たちとともにいて、イ スラーム教徒であるかのように振る舞う人は「偽信者」です。アッラーは偽信者につ いて次のように仰せられています。
「また人びとの中、『わたしたちはアッラーを信じ、最後の(審判の)日を信じる』 と言う者がある。だが彼らは信者ではない。彼らはアッラーと信仰する者たちを、欺 こうとしている。(実際は)自分を欺いているのに過ぎないのだが、彼らは(それに) 気付かない」(雌牛章第8-9節)。
生命の危険がある場合を除き、人が自分の信仰について他者をだますことは、ど のような道徳的規範においても許されないものです。信者は全ての行いにおいて正し く誠実でなければなりません。イスラーム教徒との結婚のためにイスラームに入信す ることは、人生の重要な分岐点です。良い人格を備え正しい行いをすることが尊厳 ある態度となるのです。

イスラームの命令と禁止事項の全てはクルアーンで示されていませ ん。イスラームの規定の最も重要な根拠が、スンナ(慣行)です。この 二つの源に記されていない事柄については学者たちによる見解の一致に よってイスラームに適っているか否かが判断されます。その際には、クルアーンやス ンナからの類推、過去の学者たちの見解なども参考にされます。例えばクルアーンで はワインがハラーム(禁止されていること)とされています(食卓章第90節)。しか し、ウイスキー、ビールといった飲み物がハラームとされたのは類推による判断によ るものです。ワインがハラームとされたのは、それが人を酔わせる性質を持っている からです。したがって人を酔わせる飲み物は全てハラームです。
イスラーム法の働きの基本は、イスラーム法の方法論の独特の構造により、最善の 形で体系化されています。イスラームの生活の全てをカバーする法体系をより良く理 解するためには、イスラーム法学の文献を参考にすることができます。

崇高なるアッラーは、創造された人間たちをけっして放置しておかれ ることはありません。最初に人間を創造したとき以来、アッラーは人間 にメッセージを送ってこられました。そのメッセージにより、人間をタ ウヒード、すなわちアッラーの唯一性を受け入れるようにと呼びかけてこられたので す。アッラーにどのように崇拝行為を行うべきか、さらに他の人々や被造物に対する 考え方や振る舞いはどのようにあればいいのかを教えられました。しかし人間は、時 の経過とともにタウヒードから遠ざかり、異なる道を歩み始めたのです。崇高なるアッ ラーはそのようなとき新たな預言者を遣わされ、タウヒードのメッセージを再度送ら れたのです。
この観点から考えるなら、イスラームは7世紀の初めに預言者ムハンマド(彼の上 に平安あれ)を通して下された教えではなく、全ての預言者を通して送られた全て のメッセージに共通する名称なのです。具体的にはイスラームとは、人類の歴史を通 して送られてきた根本的なメッセージが、7世紀に預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)を通し、普遍的な形として新たにされた宗教といえます。
イスラーム以前の時代、預言者イーサーに送られた最後のメッセージに改ざんが加 えられたため、アッラーのタウヒードの教えを改めて人々に伝え、踏みはずされた道 から人々を正しい道へと導く教えが必要となりました。事実、預言者ムハンマド(彼 の上に平安あれ)以前のアラブ社会では偶像崇拝が行われ、複数の神への信仰が蔓 延していたのです。血の報復により罪もない人々が殺害され、高い利子によって貧し い人々が搾取されていたのです。社会の中で相互に助け合うようなことは一切行われ ず、女の子が生まれると恥と見なされ生き埋めにされていました。売春が横行し、女 性との無制限な結婚が行われていました。弱者はその権利を行使できず、法律は金 持ちや有力者には適用されなかったのです。

イスラームは強制的な手段を用いて、他の人々にイスラームの教えを 布教しようとする意図は持っていません。なぜならそれは神の意志に反 するものだからです。事実アッラーは「もし主の御心なら、地上のすべ ての者はすべて信仰に入ったことであろう。あなたは人びとを、強いて信者にしよう とするのか(」ユーヌス章第99節)と仰せられています。またクルアーンの雌牛章でも、 次のように仰せられています。「宗教には強制があってはならない。まさに正しい道 は迷誤から明らかに(分別)されている。それで邪神を退けてアッラーを信仰する者 は、けっして壊れることのない、堅固な取っ手を握った者である。アッラーは全聴に して全知であられる(」雌牛章第256節)。したがってクルアーンは、それ自体を「真実」 と見なし、他の教えの信仰の正しさを否定しています。しかしそれらの存在を否定し ているわけではけっしてありません。他の宗教も社会の一員と見なし、そこに属する 人々も光を得るべく宗教を求めている人々と見なしています。事実、イスラーム諸国 では、さまざまな宗教が多様な集団を形成し今日まで活動しています。

アラビア語でイスラーム教徒を意味するムスリムとは帰依する者とい う意味です。イスラーム教徒となった人は全存在をかけて、イスラーム で説かれている義務や規範に従い、禁じられていることを避けなければ なりません。そのためにはまずイスラームでは何が義務で何が禁止されていることな のかを学ばねばなりません。いくつかの例を示すなら、イスラーム教徒はタハーラと 呼ばれる清めを行い、1日に5回礼拝に立たねばなりません。さらに断食や喜捨や巡 礼といった崇拝行為を行うことなども義務です。一方で、殺人や姦通、窃盗や飲酒、 呪術といったものが禁じられています。嘘をつかない、陰口をたたかない、家族に最 大限の配慮をする、両親や親戚に良く振る舞う、信託物を尊重する、イスラーム教 徒の兄弟の求めに応じる、人々の役に立つ、仕事の上で誠実で信頼される人となる といった道徳的規範を遵守することも重要な責任に含まれます。

地震はアッラーがこの世界において定められた自然界の法則の一つで す。この意味で地震はアッラーのお力を示すものです。自然界で起こる 全ての出来事は、同時に世界に対する、そして人々の行く末に対する警 告でもあります。人々に注意を喚起するためにクルアーンでは「あなたがた見る目を 持つ者よ、訓戒とするがいい」(集合章第2節)と警告されています。クルアーンは 過去の人々の反抗的な態度について言及し、彼らが自然災害によって罰を受けたこと を知らせています。しかし自然災害の全てを必ずしも神の罰であるととらえることは できません。地震が新たな水源やエネルギー資源の発見のきっかけとなることもある のです。
人のなすべきことは、アッラーのご満悦にふさわしい生き方をし、他の自然災害と 同様に適切な予防策を講じ被害を最小限にとどめるように努力することです。

崇高なるアッラーの最も重要な特質の一つは「多く許されるお方」 (ガッファール)という点にあります。罪が許されるよう悔悟しない人は 横暴な者とされています(部屋章第11節)。預言者ムハンマド(彼の上 に平安あれ)は次のように語られています。「もしあなた方が罪を犯さない集団であっ たとしたら、アッラーはあなた方の代わりに罪を犯し、悔悟する集団を創造され、彼 らの罪をも許されただろう」(ムスリム、悔悟9)。この言葉は人間は本質的に罪を犯 すものであるという意味であり、一方でアッラーの無限の慈悲を得るために努力しな ければならないこと、罪深きがゆえに絶望してはいけないことが語られています。
崇高なるアッラーは悔悟された全ての罪を許されます。クルアーンには「彼こそは、 しもべたちの悔悟を受け入れ、さまざまな罪を許し、あなたがたの行うことを知って おられる」(相談章第25節)と述べられています。クルアーンを読むと崇高なるアッ ラーは私たちの罪を許すことを望んでおられることがわかります。
崇高なるアッラーはクルアーンの次の章で、シルク(アッラーに何ものかを配する こと)以外の全ての罪が許されると述べられています。「本当にアッラーは、(何もの をも)彼に配することを赦されない。それ以外のことに就いては、御心に適う者を赦 される。アッラーに(何ものかを)配する者は、まさに大罪を犯す者である」(婦人 章第48節)。ただしアッラーに何ものかを配する者であっても、死ぬ前にアッラーに 許しを乞えば許される望みがあります。
預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は悔悟したことがどのようにして許される のかについて次のように語っておられます。「誰かに、兄弟たちの自我もしくは彼に 属するものに関する権利が遺されているのであれば、お金が役に立たない審判の日 が来る前に、この世界で彼に会ってその権利を許してくれるよう求めなさい。もしそ れが許されなければ、審判の日に、権利を侵害した者の善行から、その侵害に見合っ ただけのものが減らされ、その権利を持つ人に与えられる。もし彼に善行が存在しな いのであれば、権利が侵害された人の罪が減らされ、その分が権利を侵害した人に 加えられる」(ブハーリー、メザーリム10、リカーク48)。

悔悟とは、辞書では「後悔すること、引き下がること」という意味です。 イスラームでは、しもべが行った悪事や罪を悔やみ、それらを二度と行 わないとアッラーに誓い、命令に従い禁止事項を避けることを通して許 しを乞うことです。
罪のために悔悟を行うことはファルド(義務)です。クルアーンには、悔悟やそれ に類する言葉が86回用いられています。悔悟は、預言者アーダムの時代から始まる、 しもべであるというしるしです。クルアーンのある章句では、悔悟は謙虚に行わねば ならないとされています(禁止章第8節)。謙虚な悔悟とは、心から真剣に、そして 二度と同じ罪を犯さない誓いを前提に行われるものです。預言者ムハンマド(彼の 上に平安あれ)も、他の事柄と同様に、「悔悟についてもウンマ(イスラーム共同体) の模範となられ、信者たちにも悔悟するよう呼びかけておられた」(ブハーリー、ダー ワート4、ムスリム、悔悟1、78)。
イスラームでは、人が犯した罪がどれほど大きいものだとしても、悔悟の扉は常に 開かれており、アッラーの慈悲は私たちの想像よりもはるかに大きいものです。大き な罪であれ小さな罪であれ、全ての罪は悔悟と懺悔によって許されるとクルアーンや ハディース(言行録)で述べられています。実際、クルアーンでは次のように命じら れています。「自分の魂に背いて過ちを犯したわがしもべたちに言え、『それでもアッ ラーの慈悲に対して絶望してはならない』アッラーは、本当にすべての罪を赦される。 彼は寛容にして慈悲深くあられる」(集団章第53節)。
したがって、どのような形であれ罪を犯した者は、その罪を省みてアッラーに悔悟 しなければなりません。ある章句では「誠にアッラーは、悔悟して不断に(彼に)帰 る者を愛でられ、また純潔の者を愛される」(雌牛章第222節)と述べられています。 さらに、礼拝、喜捨といった善行を積むことも、罪の許しとなります。崇高なるアッ ラーはクルアーンで、「本当に善行は、悪行を消滅させる」(フード章第114節)と述 べられています。
アッラーは罪を犯した者に、お望みによっては罪に応じた罰を与えられ、善行を積 めば許されます。さらに崇高なるアッラーはクルアーンで「悔悟して信仰し、善行に 励む者は別である。アッラーはこれらの者の、いろいろな非行を変えて善行にされる。 アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。悔悟して善行に勤しむ者は、本気でアッラー に悔いている者である(」識別章第70-71節)と仰せられています。この章句によれば、アッラーと同等に何ものかを配することから姦淫に至るまでの全ての罪は、同じ罪を 再び犯さないことを前提として、心からの悔悟によって許されることが吉報として伝 えられています。
結論として、次のように言うことができます。人は犯した罪に対して「、崇高なるアッ ラーに許しを願い、その御方に悔悟します」と言い、悔悟を行わなければなりません。 罪を悔やみ、二度とその罪を犯さないことを誓わなければならないのです。悔悟を後 回しにしてはいけません。なぜなら、人はどれだけ生きられるか、死がいつ訪れるか わからないからです。罪を犯したときにはすぐに悔悟し、その罪を消し去るために善 行を積まなければならないのです。崇高なるアッラーの美しい名前の一つは「タッワー ブ」であり、それは「罪を多く許されるお方」という意味です。だから私たちは罪を 犯したならばただちに許しを求めなければならないのです。

人が死を恐れることには多くの理由があります。それは死が何を意味 するかわからないこと、死が苦しみであると考えていること、死後自分 が無となってしまうと考えていることなどです。
イスラームは、現世での生ははかないものですが、死は決して終りを意味している のではなく、死後に永遠の生があることを教えています。信仰を持つ人は永遠の生を 信じ、信仰を持たない人は死が無になることであり死によって命が終わると考えてい ます。それゆえ来世への信仰を持つ人の死に対する態度は、信仰しない人々と同じ ではありません。
もし、死への恐怖が「死後、罰を受けることへの恐怖」によるなら、生前に罪を犯 すことなく善行を積んで生きなければなりません。死から逃れることが不可避である 以上、死に不安を抱くのではなく、来世において現世での行いが問われるということ に不安を抱かなければなりません。クルアーンでは次のように述べられています。「あ なたがた信仰する者よ、アッラーを畏れなさい。明日のために何をしたか、それぞれ 考えなさい。そしてアッラーを畏れなさい。本当にアッラーは、あなたがたの行うこ とに通暁なされる」(集合章第18節)。
イスラーム教徒は現世の日々の営みにとらわれ死や来世を忘れ去る人ではありませ ん。死語の世界、すなわち来世のことを信じて生きる人のことです。その意味で、死 後の世界はイスラーム教徒が内に抱いている思いなのです。
イスラーム教徒は来世で直面する状況を常に念頭に置いています。その意味で信 者は常に死を恐れ、それを思い起こすことによって不安を感じている、信仰を持たな い人々と同じではないのです。なぜなら、死や死後の世界について思いをめぐらせな がら現世の生活を送ることによって、いつでも死に対する心構えができているからで す。要するに、しっかりとした信仰を持ち、それにもとづいた宗教的な生き方をする ことによって、生ある者は死をいつか訪れるものであると受け入れる準備ができてい るのです。
一方イスラームのスーフィー(神秘主義者)たちは、イスラーム教徒にとって死は 「愛する人」との出会いととらえています。なぜなら、クルアーンの表現を借りるなら、 崇高なるアッラーは信者たちにとって現世と来世における親しき友であり、援助者で あり、庇護者であられるからです。イスラーム教徒は崇高なる創造主とのこうした結 びつきが現世から来世へと引き続いていくよう、可能な限りの努力を払おうとするの です。
いくつかの伝承はアッラーと来世を信じる人は、死を迎えたとき慈悲の天使たちを 見ること、死の瞬間の苦しみを味わうことなく、容易に魂を差し出すことができると 伝えています。クルアーンの章句にも、「本当に、『わたしたちの主は、アッラーであ られる』と言って、その後正しくしっかりと立つ者、彼らには、(次から次に)天使 が下り、『恐れてはならない。また憂いてはならない。あなたがたに約束されている 楽園への吉報を受け取りなさい。(と言うのである)』」(フッスィラ章第30節)と述 べられています。またスーフィーたちは、現世において自らの魂を罪によって汚さぬ よう、細心の注意を払いながら清貧な生活を送る人々です。したがって天使たちは「、あ なたがたに平安あれ。あなたがたは自分の行った(善行の)結果、楽園に入れ」と 言うのです(蜜蜂章第32節)。

スンナとは、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)が預言者として 自ら行われた、あるいは行うよう勧められた模範的な態度です。預言者 が示された、礼拝や断食、巡礼はどのように行えばいいのかといった宗 教的な規範のことをスンナといいます。ただし預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ) が人間であられることから、服装、飲食といった預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)が生きておられた時代や地域にまつわる事柄については、それがスンナであるかどう かについては議論がなされています。
預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)の預言者としての側面と、人間としての 側面を考慮に入れるなら、預言者のスンナに従うということは、預言者が行われたこ との全てを模倣するということを意味していません。もし、スンナがこのように理解 されるのであれば、教友の全てが預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)の全ての 行いをまねる必要があったでしょう。しかしこの点については、教友たちはさまざま なアプローチをしていたことが知られています。したがって最も的確に言えば、預言 者は信者にとって最良の模範だということです(部族連合章第21節)。アッラーの使 徒のまねをするのではなく、彼を模範とすることなのです。その際にも、預言者ムハ ンマド(彼の上に平安あれ)の模範的な行動の意図、英知、そしてその意味がどこ にあるかを知り、それに従うことが必要です。例えば、預言者ムハンマド(彼の上に 平安あれ)が藁の上に寝ておられたからといって、藁の上に寝ることはスンナではあ りません。しかし、預言者が質素で謙虚に浪費からかけ離れた生活をされたことは、 どの時代、どの地域においてもイスラーム教徒全てにとって模範とすべきスンナとな るのです。食事の前後に手を洗うこと、食事の前に「ビスミッラー(慈悲深きアッラー の御名によって)」ということ、右手で自分の前にあるものを自分が食べられる分だ け取り無駄にすることなく食べること、そして食べ終わった後は「アルハムドゥリッ ラー(アッラーに感謝します)」と言って食事を終えることはスンナです。しかし地 面に座って手で食べること、1日に2回食事をとること、一種類のみの料理を食べる ことなどはスンナではないのです。

イスラームの歴史のさまざまな時代において、宗教的、社会的、ある いは政治的な理由からいくつかのイスラームの分派が生じ、その後それ ぞれが独自の教義を形成したため、それらは宗派と見なされるようにな りました。シーア派もそのカテゴリーに入れることができます。
スンニ派はイスラームの一つの宗派ですが、その中に多くの法的、神学的な学派を 含んでいます。例えば、神学的にはアシュアリー派とマートゥリーディー派、法学派 としてはハナフィー学派、シャーフィイー学派、マーリキー学派、ハンバリー学派が その中に含まれます。ただし近代においては、シーア派ではない人々の総称、すなわ ちシーア派の対義語として使われるようになっています。
シーア派は、アリーとその子孫のみがイマームとしてその共同体を率いることがで きるという考えのもとに生まれた政治的な分派であり、信条や法学の観点から独自の 原則や規範を形成していったグループです。その後、シーア派からはさらなる分派も 現れましたが、その多くは現在までその存在を維持できず、ザイド派とイランの公式 な宗派である十二イマーム派が今日まで存続しています。
イラクはスンナ派とシーア派が混在している国です。今日イラクで起きている衝突 は、宗教的なものではなく、外部の諸勢力が自らの利益を求めて仕掛けているもので す。イラクで両者の歴史的な不和が政治的に利用されることによって、紛争の舞台が用意され、そこに加えてテロなどの実行者が誰であるかわからないことによって憎悪 や敵意による騒乱の引き金が引かれてきたのです。事実、スンニ派及びシーア派の 学者たちはあらゆる機会を通じて、こうした動きが平和と安全を失わせることを意図 した挑発的な行為であると指摘しています。スンニ派であれシーア派であれ、全て のイスラーム教徒は兄弟であるという認識を持って行動すべきであり、考え方の違い についてはお互いに寛容でなければなりません。克服することのできない歴史的な不 和ではないので、相互理解のもとイスラーム教徒としての結束を固めるよう努力して いかねばなりません。

イスラームはどのような個人、集団に対しても、彼らが信仰している 宗教ゆえに危害を加えることは絶対に認めていません。それぞれの宗教 に属する人は、自分の教えを信仰し実践する権利と自由を持っています。 イスラームが認めていないのは、侵略や迫害、抑圧など他者の権利や法を侵害する ことです(雌牛章第193節)。
歴史上、ユダヤ教徒たちがイスラーム国家において、あるいは大多数がイスラーム 教徒であるイスラーム社会において、何世紀もの間、平和と信頼のうちに生きてきた ことが何よりの証です。今日も多くのイスラーム国家で、ユダヤ教徒たちは安全に暮 らしています。一般に流布されているイスラーム教徒とユダヤ教徒が不仲であるという言説は間違っています。
さらにイスラームは、他の宗教に属する人々と比較して、ユダヤ教徒やキリスト教 徒をより自分たちに近い人々と見なし、彼らに特別の地位を与えています。なぜなら 根本的に、この三つの宗教は同一の神による教えだからです。例えばイスラームは、 イスラーム教徒の男性にユダヤ教徒やキリスト教徒の女性と結婚する許可を与えて います。ユダヤ教徒やキリスト教徒の女性は自らの信仰を放棄することなく、イスラー ム教徒の男性と家庭を築くことができます(食卓章第5節)。
このところユダヤ教徒とイスラーム教徒との間は、以前に比べると問題があるよう に映っています。それはユダヤ教徒が建設したイスラエルという国が中東に存続して いることにあります。本来イスラーム教徒は、ユダヤ教徒がただユダヤ教徒であると いうだけで彼らの敵になることはありません。なぜならそれは決してイスラームの教 えにそぐわないものだからです。