③ 崇拝行為について

人間は精神と肉体から成り立っている生命体です。それゆえ健康は精 神と肉体の両方が健全でなければなりません。私たちの肉体はいくつか の生物学的法則に基づいて動いています。体内の組織で生じた異常は病 気という形で現れます。そのときには病気の治療のために医学を専門とする医師に相 談します。
一方で人間は精神を持った存在でもあります。精神状態が落ち着いていれば、肉 体にプラスに作用し、落ち着いていない場合は肉体にマイナスに作用します。もし人 が健康であることを望むなら、肉体と精神双方の健康状態が良好であらねばなりませ ん。肉体が健康のために飲食を求めるように、精神も満たされねばなりません。クル アーンでは精神が求めるものはズィクル(唱念)であると告げられています。「これ らの信仰した者たちは、アッラーを唱念し、心の安らぎを得る。アッラーを唱念する ことにより、心の安らぎが得られないはずがないのである」(雷電章第28節)。
この意味で、アッラーへの唱念とは、アッラーの命令に従い、禁止されていること を避け、常にアッラーを唱え念じていることを意味しています。信仰とは人がイスラー ム教徒となり、自らの魂の安らぎを見出すことを意味します。とはいえ信仰は崇拝行 為によって強化されなければなりません。崇拝行為はその形も意義も重要です。その どちらかが不足しても、崇拝行為から期待される道徳的、精神的な効果は得られま せん。
崇高なるアッラーは、しもべに無限の恵みを与えられました。その恵みへの感謝を 表明する機会として崇拝行為が義務とされたのです。崇拝行為はしもべにとってた いへん有益なものです。崇拝行為はしもべが精神的に成熟し落ち着いて穏やかな境 地へと至る助けとなります。その意味で、崇拝行為は人間にとって決して重荷ではな いのです。崇拝行為に費やされる時間は、人が精神的に満たされ、新たな力を得る 時間なのです。
したがってイスラーム教徒は、原則としてアッラーの命令である崇拝行為を自らの世俗的な用件よりも優先させねばなりません。はかない現世での生の営みを、来世で の永遠の幸福を獲得する機会として使わなければならないのです。
また崇拝行為の時間や形式がアッラーによって定められたということを私たちは十 分に認識しなければいけません。クルアーンでは次のように語られています。
「彼が創造されたものを、知らないであろうか。彼は、深奥を理解し通暁なされる(」大 権章第14節)。当然アッラーはしもべの能力をよくご存じで、できないような責務を 負わせられることはありません。「アッラーは誰にも、その能力以上のものを負わせ られない(」雌牛章第286節)。人間の本質が変わらない限り(絶対に変わらないでしょ うが)、崇拝行為の時間や形式が変わることはないでしょう。現代人の日々の多忙さ は崇拝行為の数を減らす正当な理由とはなりません。逆に仕事中心のあわただしい 生活の中で、適宜に行う崇拝行為は人にアッラーを思い起こさせ、アッラーの教えに 従って正しく生きることを助長してくれるのです。

崇拝行為は、アッラーが命じられ預言者ムハンマド(彼の上に平安あ れ)が実践された形で行われます。カアバ神殿に向かって礼拝を行うこ とはアッラーが命じられたことです。クルアーンでは次のように命じら れています。「われはあなたが(導きを求め)、天に顔を巡らすのを見る。そこでわれ は、あなたの納得するキブラに、あなたを向かわせる。あなたの顔を聖なるマスジド の方向に向けなさい。あなたがたは何処にいても、あなたがたの顔をキブラに向けな さい。本当に啓典の民は、それが主からの真理であることを知っている。アッラーは、 彼らの行うことに無頓着な方ではない」(雌牛章第144節)。
世界のどこにいてもイスラーム教徒は、礼拝を行うときにはマッカのカアバ神殿に 向かって立ちます。全てのイスラーム教徒が同じキブラ(礼拝の方角)に向かって立 つことによって一体感を獲得し力を培います。一つの方向に向かって立つことはタウ ヒード(神の唯一性)を示しています。

カアバ神殿の周回もアッラーの命令によるものです。カアバ神殿は人 類最初の礼拝所です。それゆえイスラーム教徒は、その場所に特別の重 要性と価値を置いているのです。神殿を周回することは、イスラーム教 徒がその生き方の中心にアッラーのご満悦を置き、神の命令に従い道を逸れることな く生きていくことの象徴でもあります。また周回は小さな存在から大きな存在まで全 ての被造物がアッラーを念じていること、人もそこに加わっていることの象徴です。 原子核の周囲をまわる電子、1秒も休むことなく肉体の全ての細胞をめぐる血液、何 百万年も地球の周囲をまわってきた月、太陽の周囲をまわり続ける地球のように、イ スラーム教徒もまたカアバ神殿の周囲をまわるのです。

イスラーム教徒は断食をアッラーが命じられた崇拝行為であるゆえに 行います。同時に断食は精神的、肉体的、社会的に多くの英知を含んで います。
アッラーは、全ての疾患に治療法、全ての病気に薬を与えられたように、悪事に対 してもそれから遠ざかる方策を与えられています。断食は人を悪事から守る盾です。 断食による空腹と渇きは、いつでも私たちはアッラーの御前にいるという意識を強め ます。それによって人は現世での悪から遠ざかることができ、地獄の罰からも救われ ます。
断食は単純に「食べない」という行為ではありません。断食は徳を高めます。預 言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は次のように語られています。「誰であれ、嘘 をついたり、嘘で仕事を進めたりすることをやめなければ、アッラーはその人が飲食 を断ったことに価値を与えられない」(ブハーリー、サウム8)。
断食は感謝する心を育みます。断食月ではないときには、人は真の空腹を味わうこ とがないため、アッラーからの恵みのありがたさを正しく理解することができません。 しかし断食月には、毎日、日没でその日の断食を終えるまで、昼間、長時間空腹と渇 きの中にいた人は、一杯の水、一切れのパンのありがたさを感じることができます。 社会には貧しい人も、中流の人も、豊かな人もいます。崇高なるアッラーは人間社会にこうした差異があるがゆえに、豊かな人は貧しい人々の欠乏を満たし、彼らを援 助するよう命じておられます。豊かな人が貧しい人を援助することは、豊かな人が断 食によって空腹を実感することによって初めて可能となります。
長時間稼働している機械が定期的に点検を受ける必要があるように、前の年の断 食以来11か月間働きづめで疲れている体の組織(消化器官)も、年に1回、この1 か月くらい休ませ点検する必要があります。こうしたことが断食によって最善の形で 実現されることなのです。

アッラーは他の恵みと同様に動物たちも人間のために創造され人間へ 奉仕するものとして与えられました。しかしイスラームではどのような 形であれ、動物を苦しめ彼らに害を与えることを禁じています。預言者 ムハンマド(彼の上に平安あれ)の多くのハディース(言行録)には、動物たちへの 慈悲についてさまざまなエピソードが残されています。
預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は、ネコを飢え死にするまで家に閉じ込め ていた女性について、その行いゆえに彼女は地獄に行くと話されました(ブハーリー、 アンビヤー54)。別のハディースでは、のどの渇きに苦しむイヌに靴を使って井戸か ら水を汲んで飲ませた人は、罪を許されると説かれました(ブハーリー、シルブ9)
預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は、顔に焼印を押されたロバを見て、そ の悲しみを次のように表現されました。「この動物の顔に焼印を押した者にアッラー の呪いがありますように」(ムスリム、リバース107)。またあるとき数人の教友たち が鳥の巣を見つけ、巣の中のヒナを取り出してかわいがりはじめました。するとその ときに母鳥が来て、ヒナが教友たちの手にあることを知ってバタバタと羽音をたてて 騒ぎ始めました。アッラーの使徒はその様子を知り不快に思われ、すぐにヒナを巣に 戻すように命じられたのです(アブー・ダーウード、ジハード112)。
預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は動物への虐待を防ぐため、いくつかの 禁止事項を設けられています。預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は、動物た ちを飢えと渇きのうちに放置すること、殴打すること、無用に競わせること、子ども を親から取り上げること、動物たちの能力を超えた重荷を負わせることなどを禁じら れていました。動物を虐待している者がいれば警告を与えられました。
預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は、動物に対して物理的な暴力だけでは なく、悪い言葉を投げかけることも許されませんでした。自分が乗っている動物に呪 いの言葉をかけていた女性に、その動物から下りるよう命じられています(ムスリム、 ビッル80)。
動物に対し良く振る舞うことが善行となるかどうかと尋ねられたときに預言者ムハ ンマド(彼の上に平安あれ)は、「全ての命あるものに対し行われた良い振る舞いは 善行となる」と答えられています(ムスリム、サラーム42)。
また預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)はあるときに、「アッラーは、慈悲深 い人に慈悲を持って振る舞われる。だからあなた方は地上の被造物に対し慈悲深く ありなさい。アッラーもあなた方に慈悲を持って接して下さるように」(アブー・ダー ウード、アーダーブ58)と言われています。
祭事のとき動物を屠るという行為は、ひたすらアッラーを称え、アッラーに近づく ためになされます。この崇拝行為が行われる意図は、アッラーのご満悦を得ることに あります。そして、屠られた動物の肉は、アッラーのしもべに対する慈悲ゆえに人間 が消費することができるのです。
動物を屠るときには、大前提として動物を苦しめてはいけません。暴力を用いるこ となく屠畜場まで連れて来ること、そしてよく研いだナイフで、可能であれば動物の 目を覆って屠畜しなさいと言われています。屠った動物の肉は原則として三つに分け られます。その一部分は家族のために、一部分はそれを必要としている貧しい人々に、 残りの一部分はイスラーム教徒であるかないかを問わず隣人に配られます。

辞書的な意味でジハードは、奮闘努力をすること、良い結果を得るた めにできる限りのことをするといった意味になります。宗教的にはクル アーンやハディース(言行録)の教えを学ぶこと、学んだ知識を教え伝 えること、そこに記されている命令に従うこと、禁止されていることや罪に対し戦う こと、すなわちイスラームを知り、実践し、徳を高めるために努力することを意味し ています。またイスラーム教徒に戦いを挑む者に立ち上がって戦うことも意味してい ます。クルアーンの「アッラーの(道の)ために、限りを尽くして奮闘努力しなさい」 (巡礼章第78節)という言葉は、それらの全ての意味を包括するものなのです。
このようにジハードは多義的な概念です。したがってイスラーム学者たちはジハードについてさまざまな定義を下しています。それによるとジハードとは、「真実の教 えへと導くための活動」「シャイターン(悪魔)と我欲に対してなされる戦い」「敵の 攻撃に対する防衛の戦いにおいて全力を尽くすこと」「アッラーにしもべとして仕え ること、そしてアッラーとその使徒が示された規範を人々に伝えること、それをさま ざまな脅威や攻撃から守ること」などです。
このようにイスラームのジハードには、神の道において奮闘努力することから社会 的な任務や責任を果たすことまでさまざまな側面があります。ジハードの最後の形が 戦いなのであれば、それはただ防衛のためやむを得ない場合に限られているのです。
イスラームは侵略を目的とする戦いを認めていません。戦いはイスラーム教徒の安 全を守り基本的権利や自由を守るためだけに行われるのです(雌牛章第205節、婦 人章第94節、物語章第83節、詩人たち章第41-42節)。事実、クルアーンで戦い について言及されている箇所では、戦いの端緒が相手側にあることがよくわかります。 限定的な場合を除き、決してイスラームが戦いを奨励しているものではないのです。 預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)も「人々よ、敵と対決し戦うことを願っては いけない。アッラーに、あなた方を戦いから守るよう求めなさい。敵と対面したとき には忍耐しなさい」(ブハーリー、ジハード112、156)と命じられています。
ジハードはその状況、時期、条件などにより以下のように分類さています。
言葉で行われるジハード
「だから不信者にしたがってはならない。彼らに対しこの(クルアーン)をもって 大いに奮闘努力しなさい」(識別章第52節)というクルアーンの章句で、この種のジ ハードが命じられています。クルアーンとそこに述べられている規範を学び、教え、 イスラームを人々に説くことなどが、言葉によって行われるジハードの範疇に含まれ ます。それは教育によるジハードともいえます。
人が自らの心の中の堕落、怠惰、腐敗などと戦うジハード
信仰し、誠実に振る舞い、自ら罪ある言葉や行為、態度から遠ざかるよう努力す ることは、ジハードの最も重要なあり方です。預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ) は、「真の戦士とは、自己中心的な欲望と戦う者である」(ティルミズィ―、ジハード 2)と述べられています。それは、諸悪と闘う克己のジハードと呼ぶことができます。
財産や生命によって行われるジハード
これはイスラーム教徒を攻撃する者に対し、生命や財産を差し出して戦うジハード です。クルアーンでは、「そしてあなたがたの財産と生命を捧げて、アッラーの道の ために奮闘努力しなさい」(悔悟章第41節)と命じられています。
このようにイスラームは「ジハード」を戦争という狭い意味に限定せず、広くとら えています。神の真実を人々に説き、そのために汗を流し、ときには独裁者に対し不正を訴えることもまたジハードと見なされます。さらに、学問の発展に寄与したり、 善行を奨励することもジハードの範疇に含まれます。

イスラームが求める責任はその人の力に応じたものと考えます。アッ ラーは誰にも、その能力を超えた責任を負わせられることはありません。 なぜならクルアーンでは次のように命じられているからです。「アッラー は何人にも、その能力以上のものを負わせられない。人々は、その行ったことで己を 益し、その行ったことで己を損なう」(雌牛章第286節)。例えばイスラームでは経済 的に余裕のある人は喜捨を行い巡礼に行きます。しかし貧しいイスラーム教徒にはそ のような責任はありません。ただ全てのイスラーム教徒が実践すべき、すなわちしも べであることによる義務としての行為は存在し、その実践については責任を負ってい ます。
信仰する者は、全てアッラーのご命令と禁止事項を受け入れ、力を挙げてそれら を実践するために努力を傾けねばなりません。信仰心がありながら崇拝行為を怠った からといって、その宗教を離脱する必要はありません。しかしその人は罪を犯した人 となります。したがって、実行することができなかった、あるいは忘れていたため行 えなかった崇拝行為があれば、その分を補わねばなりません。