وَإِذْ قَالَ مُوسَىٰ لِقَوْمِهِ اذْكُرُوا نِعْمَةَ اللَّهِ عَلَيْكُمْ إِذْ أَنجَاكُم مِّنْ آلِ فِرْعَوْنَ يَسُومُونَكُمْ سُوءَ الْعَذَابِ وَيُذَبِّحُونَ أَبْنَاءَكُمْ وَيَسْتَحْيُونَ نِسَاءَكُمْ ۚ وَفِي ذَٰلِكُم بَلَاءٌ مِّن رَّبِّكُمْ عَظِيمٌ (6) وَإِذْ تَأَذَّنَ رَبُّكُمْ لَئِن شَكَرْتُمْ لَأَزِيدَنَّكُمْ ۖ وَلَئِن كَفَرْتُمْ إِنَّ عَذَابِي لَشَدِيدٌ (7) وَقَالَ مُوسَىٰ إِن تَكْفُرُوا أَنتُمْ وَمَن فِي الْأَرْضِ جَمِيعًا فَإِنَّ اللَّهَ لَغَنِيٌّ حَمِيدٌ (8) أَلَمْ يَأْتِكُمْ نَبَأُ الَّذِينَ مِن قَبْلِكُمْ قَوْمِ نُوحٍ وَعَادٍ وَثَمُودَ ۛ وَالَّذِينَ مِن بَعْدِهِمْ ۛ لَا يَعْلَمُهُمْ إِلَّا اللَّهُ ۚ جَاءَتْهُمْ رُسُلُهُم بِالْبَيِّنَاتِ فَرَدُّوا أَيْدِيَهُمْ فِي أَفْوَاهِهِمْ وَقَالُوا إِنَّا كَفَرْنَا بِمَا أُرْسِلْتُم بِهِ وَإِنَّا لَفِي شَكٍّ مِّمَّا تَدْعُونَنَا إِلَيْهِ مُرِيبٍ (9)۞ قَالَتْ رُسُلُهُمْ أَفِي اللَّهِ شَكٌّ فَاطِرِ السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ ۖ يَدْعُوكُمْ لِيَغْفِرَ لَكُم مِّن ذُنُوبِكُمْ وَيُؤَخِّرَكُمْ إِلَىٰ أَجَلٍ مُّسَمًّى ۚ قَالُوا إِنْ أَنتُمْ إِلَّا بَشَرٌ مِّثْلُنَا تُرِيدُونَ أَن تَصُدُّونَا عَمَّا كَانَ يَعْبُدُ آبَاؤُنَا فَأْتُونَا بِسُلْطَانٍ مُّبِينٍ (10)صدق الله العظيم

اللَّهُمَّ أعِنَّا عَلَى ذِكْرِكَ، وَشُكْرِكَ، وَحُسْنِ عِبَادَتِكَ

兄弟、姉妹の皆様にとり、祝福に満ちた金曜日でありますように!
私たちの預言者(彼の上に祝福と平安あれ)は、折に触れ(おりにふれ)夜に目を覚まし祈りを捧げました。謙虚にキヤーム(立位)の姿勢を取り、長い間、立っておられました。涙を浮かべて、サジダ(平伏)なさいました。献身(けんしん)する彼を目にした私たちの母アーイシャは、畏敬(いけい)の念をもって彼に尋ねました。「アッラーのみ使いよ!アッラーは、過去においても未来においてもあなたの罪を許したまいました。それなのに、なぜそんなにも祈りを捧げるのですか?」。アッラーのみ使い(彼の上に祝福と平安あれ)は愛する妻に次のような意味深く賢明な答えを返されました。「私は感謝するしもべではなかったか、アーイシャよ?」。
尊敬すべき信仰者の皆様!
少し立ち止まって、ここに至る(いたる)ほんの数時間のあいだにも、私たちがどれほどの恩恵を授かっていることか、振り返ってみましょう。その恩恵のひとつひとつが、どのようにして私たちにもたらされているのか、考えてみましょう。その恩恵が、大地の奥深くから届けられた果物であったなら、それはアッラーによって、私たちのために、いくつかの段階を経(へ)て準備されたものであることを意味します。ひとしずくの水であったなら、それはアッラーによって、ただ私たちのために、海から雲の高さまで引き上げられ、再び大地へ降り注いだものであることを意味します。光であったなら、それはアッラーによって、太陽を通して、深い宇宙の果てから送り届けられたものなのであります。
尊敬すべき兄弟、姉妹の皆様!
感謝するということは、アッラーが私たちに授(さず)けたもう恩恵を認識するということであります。感謝するということは、私たちが自らの欲望や欲求、野心や貪欲(どんよく)の奴隷(どれい)となってしまわないよう、自らの身を守るということであります。感謝するということは、創造の目的と知恵の道に生きることの証(あかし)であります。感謝するということは、私たちに親切にしてくれる人々に対し、耳を貸さなかったり、見えないふりをしたりすることではありません。感謝するということは、富(とみ)をほめ称(たた)えることではなく、忍耐強く貧しさに耐えることをも意味します。感謝するということは、次のアーヤを心に留めて、アッラーのお怒りからのご加護を、アッラーの慈悲に求めるということであります。「もしあなたがたが感謝するなら、われは必ずあなたがたに対する恩恵を増すであろう。だがもし恩恵を忘れるならば、わが懲罰は本当に厳しいものでとなる。」

Friday Prayer - Jumuah Khutba
Friday Prayer – Jumuah Khutba

親愛なる兄弟、姉妹の皆様!
「アルハムドゥリッラー、ヤーラッブ、シュクラン(アッラーに讃えあれ、主に感謝あれ)」と唱(とな)えたからといって、感謝したことになるわけではありません。本当の意味での感謝とは、アッラーのお喜びを勝ち得られるであろうやり方で、ひとつひとつの恩恵を活(い)かすということであります。私たちの呼吸するすべての息(いき)、人生、心、健(すこ)やかさ、そしてその他あらゆる恩恵に、それぞれにふさわしい感謝の仕方があるのです。
高潔な人間として創造されたことに対する感謝とは、信仰であります。心を授けられたことに対する感謝とは、うらみや憎しみ、その他の悪しき感情を追い払うことであります。精神を授けられたことに対する感謝とは、アッラーの聖なることを沈思黙考(ちんしもっこう)することであります。舌を授けられたことに対する感謝とは、アッラーをズィクル(唱念)することであります。身体を授けられたことに対する感謝とは、常にアッラーのご承認に従い、祈りを捧げて生きることであります。富(とみ)と財産を授けられたことに対する感謝とは、必要としている人々にサダカ(慈善)をザカート(喜捨)を差し出すことであります。知識を授けられたことに対する感謝とは、教え子たちを教育し、将来にわたって役に立つ仕事を成し遂げることによ
り、人類に貢献することであります。
尊敬すべき信仰者の皆様!
たとえそれがどれほどささやかなものであろうと、親切にされた時には、人として感謝せねばならないという思いを、私たち誰もが持っているものです。そうであるなら、これらすべての恩恵を授けたもう私たちの主に、感謝しないでいることが正しいといえるでしょうか?これらの恩恵を無視することが、信仰者としての奉仕の感覚と道徳にふさわしいといえるでしょうか?もちろん、答えは否(いな)であります。
兄弟、姉妹の皆様!
私たちの精神も心も、舌も体も、感謝すべき恩恵から逸れることのないようにしましょう。私たちの人生を、私たちの感謝によって恩恵で満たしましょう。私たちの感謝をもって、より多くの恩恵の源(みなもと)としましょう。私たちの賛美によって、私たちの主に近づき、自らを高めてゆきましょう。
本日のホトバを、私たちの預言者(彼の上に祝福と平安あれ)による次の祈りをもって終わりたいと思います。「おお、アッラーよ。私があなたを想い、あなたに感謝し、あなたに祈る者であれるよう、私をお導きください」。