فَخَلَفَ مِن بَعْدِهِمْ خَلْفٌ أَضَاعُوا الصَّلَاةَ وَاتَّبَعُوا الشَّهَوَاتِ فَسَوْفَ يَلْقَوْنَ غَيًّا ﴿٥٩﴾

兄弟、姉妹の皆様にとり、祝福に満ちた金曜日でありますように。

全能の主は、スーラトゥル=マルヤム(マルヤムの章)において、イドリース、ヌーフ、イブラーヒーム、イスマーイール、イスハーク、ヤアクーブ、ムーサー、ハールーン、ザカリヤ、そしてイーサーと、お一人づつの名を挙げ、彼ら預言者たちのタウヒードの努力について述べておられます。それから主は、彼ら預言者たちの、後(のち)の時代を生きた共同体の上に降りかかった、大いなる不幸についても、以下の章句の通り言及しておられます。「……かれらの後継者が礼拝を怠り(おこたり)、私欲に耽った(ふけった)ので,やがて破滅に当面することになるであろう。」

尊敬すべき信仰者の皆様!

この章句に従えば、信仰者にとり、地上における最も大いなる損失のひとつが、礼拝をせず、これを怠る(おこたる)ことであります。礼拝は主への服従であり、また私たちの、最も特別かつ美しい奉仕の現われでもあるからです。礼拝とは、静けさに満ちた場所へと至ることを意味します。平安へと至ることであり、平和を見出すことを意味します。それは信仰者たちが、待ち望んでいた<合一>そのものです。それは私たちの主との、一日に五回の逢瀬(おうせ)であり、この逢瀬は「アッラーフアクバル」、すならち神の偉大さに対する、感謝の言葉によって始まります。耳の高さに両手を上げるのは、神のご好意を妨げる、現世のすべてを背後に投げうつことを意味します。キヤームは、ただ神のみに顔を向け、主の道に残ることを象徴しています。

キラートは、主ご自身の御言葉(みことば)によってなされる、主に対する心からの嘆願(たんがん)であります。ルクウとサジダは、神のしもべたることの真骨頂(しんこっちょう)であります。サラームは、私たち自身に対して、また共に生きる私たちの兄弟、姉妹に対して、幸福と平和を願うことであります。

親愛なる兄弟、姉妹の皆様!

私たちの聖典においては、礼拝する信仰者は賞賛に値する者とされる一方で、礼拝を怠る者たちは非難の対象とされています。定められた礼拝を行う者たちは、自らを高め、吉報と栄誉を授けられるのと同時に、この大いなる祝福から立ち去る者たちには警告がなされています。自らの礼拝により、賞賛と吉報、そして慈悲を授かる者たちとは、「アッラズィーナ ユ ミヌーナ ビルガイブ ワ ユーキームーナッサラート」、規則正しく礼拝を実践する者たちであります。「アッラズィーナ フム フィー サラーティヒム ガーシウーン」。彼らは礼拝に込められた精神、本質、そしてメッセージを固持する人々であります。彼らにとり、礼拝とは向上であります。彼らは、「礼拝とは、それを常に行う者たちにとっての光であり、確証であり、そして終末の日の救済を保証するものとなる」というハディースを、理解している人々なのであります。

Friday Prayer - Jumuah Khutba 「Those Who Forgot Allah Will Be Forgotten」
Friday Prayer – Jumuah Khutba 「「礼拝を怠ることは、多くを失うこと」」

兄弟、姉妹の皆様!

私たちが礼拝を守る限り、礼拝も私たちを守ってくれます。私たちが礼拝を保ち続ける限り、礼拝も私たちを保ち続けてくれます。礼拝は、いつでも私たちに対し寛大であり続けてくれています。私たちがすべきことは、礼拝から自らを遠ざけないということのみです。礼拝は、いつでも惜しみなく私たちを高めてくれます。

私たちがすべきことは、心を込めることにより、自らの礼拝を高めてゆくことのみです。礼拝が、私たちを置き去りにしたり、私たちの主との距離を引き離したりすることは決してありません。私たちがすべきことは、礼拝から自らを引き離さないことのみです。にも関わらず、私たちは、定められた時間に礼拝を行うことができなかったり、あるいは礼拝をせずに済ませてしまうほどに、日々の雑事に追われて過ごしています。ですが私たちの預言者(彼の上に平安あれ)は、決められた時間通りに行われる礼拝こそ、最も良い礼拝である、と仰っています。彼は最も優れたムアッズィンに、このような言葉をかけておられます。「ビラールよ、起きなさい!礼拝をして、新たな活力を得ましょう」。そのようにして、生きることの厳しさを、礼拝によってやわらげておられたのであります。預言者は、礼拝によって疲れをいやし、礼拝によって平安を得ておられたのであります。

兄弟、姉妹の皆様!

ご一緒に、自らに問いかけてみましょう、私たちは礼拝を守っているでしょうか。また礼拝は、私たちを守ってくれているでしょうか。礼拝を後回しにしたり、あるいはせずに済ませていることを後悔し、胸を痛めているでしょうか。私たちの礼拝は、自らと主との間の、愛と合一の架け橋となっているでしょうか。私たちの意図は、人々と主の御前に自らを高めるという、私たちの倫理として欠かすことのできない誓いにふさわしいでしょうか。私たちの礼拝は、自らを悪から守る盾となっているでしょうか。

兄弟、姉妹の皆様!

全能の主が私たちを礼拝によって自らを高める者の一人としてお認めくださいますよう、お祈りします。礼拝により自らを浄める者、礼拝により主のご好意を得る者、そして主の永遠の祝福を授かる者の一人としてお認めくださいますよう、お祈りします。

[i] Maryam 19/59.

[ii] İbn Hanbel, II, 169.

[iii] Abu Dawud, Edeb, 78.