東京ジャーミイ 金曜礼拝のホトバ「よい意志とイフラース」

金曜礼拝のフトバ

ムスリムの皆様。
イバーダは、創造の意図であり、偉大なるアッラーへの敬意と結びつきを明らかに示すものです。イバーダが承認されるためには、形式に従った形で、ただアッラーのご満悦を得ることのみを求めて行われる必要があります。「その富を施し、自分を清める。また誰からも、慈悲の報酬を求めない。一生懸命に至高者、主の御顔を請うだけである。 やがて、かれは(十分に)満足出来るであろう。」(夜章第18節-21節)という章句では、ただアッラーのご満悦を得るために行われる崇拝行為が承認されるということが注意をひくものとなっています。預言者ムハンマドも、「疑いもないことだが、アッラーは、ご自身のご満悦を求めて行われた崇拝行為以外はお認めになられない。」と仰せられ、この世的な利益や報酬への期待が含まれる崇拝行為が承認されないことを明らかにされておられます。聖クルアーンでは、預言者たちが、人々から決して報酬を求めることなく布教を行ったことが明らかにされています。「わたしへの報酬は、只万有の主から(いただく)だけです。」(詩人たち章第109,127,145,164,189節)

親愛なるムスリムの皆様。
意志は、言葉や行動をイバーダへと変化させます。イフラースの存在しない、形式的なだけのイバーダは人に何ものをも獲得させません。だからこそ、イスラームの教えは意志に重きを置き、私たちの預言者もまた、崇拝行為の真の価値が意志によるものであることを明らかにされたのです。

預言者ムハンマドは、タブークの戦いからの帰路、このようにおっしゃられました。「マディーナで私たちとともに戦わなかったのにもかかわらず、ともに戦ったかのように善行を得た人々がいる。なぜなら彼らには認められ得る事情があったからだ。」一方で、イフラースの伴わないイバーダを行う人々に関しては「災いなるかな、礼拝する者でありながら、自分の礼拝を忽せにする者。(人に)見られるための礼拝をし、」(慈善章第4-6節)という表現により、厳しく警告がなされています。

親愛なるムスリムの皆様。
見られるための礼拝、礼拝を忽せにすることは、精神的な一種の病です。アッラーはこの真実について次のように仰せられておられます。「信仰する者よ、あなたがたは人びとに見せびらかすため、持物を施す者のように、負担侮辱を感じさせて、自分の施しを無益にしてはならない。またアッラーも、最後の(審判の)日も信じない者のように。かれらを譬えてみればちょうど、土を被った滑らかな岩のようなもので、大雨が降れば裸になってしまう。かれらはその働いて得たものから、何の得るところもないであろう。アッラーは不信心の者たちを御導きになられない。」(雌牛章第264節)

ムスリムの皆様。
だから、イバーダが、ただイフラースによってその価値を得ること、許された動作のすべてが、よい意志によってイバーダへと変化し得るのだということを忘れないようにしましょう。家庭生活において、職場において、また社会的な人とのつながりの中で、常によい意志を持ち、あらゆる行動においてアッラーのご満悦を得るべく努めましょう。今日のフトバを、次のハディースによって締めくくりたいと思います。「アッラーはあなた方のありようや見かけではなく、あなた方の心をご覧になる。」

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