東京ジャーミイ金曜日のホトバ 「不誠実さの縮図:偽善について」

兄弟、姉妹の皆様にとり祝福に満ちた金曜でありますように。 本日のホトバでは、あるひとつの悪事についてお話ししたいと思います。それは、私たちがこれまでに行って きたすべての善行を無に帰し、取り去ってしまう悪事です。その悪事とは、偽善であります。これは美しいものすべてを破壊し、あらゆる善行を打ち消してしまう、不誠実の典型であります。偽善とは、人間関係やお互いの信頼を損ね、その人に対する人望を失わせる一種の病(やまい)であります。

私たちの預言者(彼の上に祝福と平安あれ)は、サハーバ(教友)たちとの会話の中で、偽善について次のように指摘しています。「あなた方について私が最も恐れるのは、小さなシルク(偶像崇拝)です」と、アッラーのみ 使いは仰られました。そこで彼らはこう尋ねました、「アッラーのみ使いよ、小さなシルクとは何でしょうか?」。 すると私たちの預言者はこうお答えになられました。「偽善とは、小さなシルクにあたります。審判の日、アッラーは 万人にその行ないに報いたまい、それから偽善者にはこう告げたもうでしょう。『現世において、偽善を働いた者のところへ行け!見よ!彼らのそばに報奨や善行があるだろうか?』」。[i]

兄弟、姉妹の皆様!

もしも私たちが偽善を働いたなら、私たちのミゥラージュである礼拝も、私たちを悪から守ることはできなくなります。このような類(たぐ)いの礼拝はファワイルッリル ムサッリーン、「災いなるかな、礼拝する者でありながら、」アッラズィーナ フム アン サラーティヒム サフーン、「自分の礼拝を忽(ゆるが)せにする者」と、クルアーンのアーヤ(章句)において指摘されている通りの礼拝であります。このような類(たぐ)いの礼拝をする者はアッラズィーナ フム ユラーウーン、「人に見られるための礼拝をする者」 であります。 [ii]

尊敬すべき信仰者の皆様!

私たちの断食も、それを偽善のために無駄にしてしまうようでは、私たちを悪から守ることはできません。もしも家畜を、偽善をもって犠牲に捧げるようでは、それは私たちを神に近づけることにはならないでしょう。 もしも私たちのサダカが、ザカートが、善行が、偽善によって汚れていたとしたら、神に対する服従を示すことはできないでしょう。 私たちの預言者(彼の上に祝福と平安あれ)は、偽善で汚れた行為は、審判の日に大いなる悲嘆をもたらすだろうと仰せられています。ザカートを支払うときに、「皆は私を寛大だと思うだろう」などと考える人がいたならば、彼の財産は彼自身を燃やす業火となるでしょう。もしも知識を蓄えることにより、「皆は私を賢いと思うだろう」などと考える人がいたならば、彼の知識は彼自身を苛(さいな)む苦悩となるでしょう。そればかりか、もしもシャヒード(殉教者)が「皆は私を英雄だと思うだろう」などと考えてシャヒード(殉教者)になろうとする人がいたならば、そのような殉教は受け入れられることはありません。なぜなら自らの望みを、まったくの虚栄心と引き換えにし、神に与えられている恩寵を捨て去る人の行為は、神によるいかなる価値も与えられないからであります。[iii]

兄弟、姉妹の皆様!

イメージと虚栄心ばかりが、日々、この世界を支配しています。人類は急速に、誠実さから離れていきます。 今日(こんにち)、自分を大きく見せようとするうぬぼれと偽善は、私たちの意識と精神を傷つけ、私たちの信仰と行為を脅(おびや)かし、人間関係や友情を害する最も大きな危険のひとつとなっています。私たちが信仰者として、現世において正直さ、誠実さの試練を課されているとき、私たちの義務とは、裏表(うらおもて)の顔を持つことなく、虚栄心と利己主義を遠ざけることであります。私たちの義務とは神の恩恵を求め、私たちのあらゆる言葉や行為において、主の幸福を目指すことなのです。

[i] Al-Bayhaqi, Şuabü’l-îmân, V, 333.

[ii] Al-Ma’un, 107/4-6.

[iii] Muslim, İmare, 152.


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