東京ジャーミイ 金曜礼拝のホトバ「ドゥアーとズィクル」

金曜礼拝のホトバ

親愛なるムスリムの皆様。
人が生きるうえで最も尊い時間は、偉大なるアッラーに向かい、アッラーと向き合っている時です。アッラーと向かい合う為の最良の方法は、ドゥアーとズィクルです。「ドゥアーはイバーダの真髄である。」

ドゥアーとズィクルは、アッラーとしもべの間の強い結びつきです。ドゥアーやズィクルから遠ざかることは、人がその創造主との結びつきを弱め、結果として宗教生活がもろくなってしまうことの要因となります。特に、今日では私たちの心を迷わせるあまりにも多くの否定的要素が存在するため、信者がドゥアーやズィクルと深い結びつきをもって生きることはとても重要なこととなるのです。

ドゥアーやズィクルと共に生きることは、アッラーを見ているかのように生きることです。私たちはアッラーを見ることは出来なくても、アッラーは私たちをご覧になっておられるのです。ドゥアーとズィクルは、人に、アッラーと共にいるという認識を与え、信者が精神的によりはっきりとした意識を持って時を過ごすことを可能にするものです。は、人に与えられた大きな信託であり、恵みです。ドゥアーとズィクルと共に生きる人は、あらゆる瞬間、あらゆる振る舞いにおいて責任を負い、日々の生活のあらゆる段階で主を忘れることはありません。この世的な仕事で忙しくすごすことも、彼をアッラーの想起から遠ざけることはありません。交易や商売は、彼がアッラーをおもうことの妨げにはならないのです。

「人びとは、交易や商品に惑わされないで、アッラーを念じ、…」(御光章第37節)そして、 「だからわれを念じなさい。そうすればわれもあなたがたに就いて考慮するであろう。」(雌牛章第152節)という節が、人生において実践されるのです。アッラーを忘れずにいることがもたらすものとして、真のムスリムは、かんたんには悪事を働かず、アッラーが定められた境界を踏み越えてしまうこともありません。なぜなら、悪事に近付いた時には、アッラーが自分をご覧になっていること、心の中で思ったことですらご存知であることを思い出すのです。自らに与えられた尊いものを思い出し、その美しさを失うことを望まなくなるのです。

ムスリムの皆様。
私たちの声を聞く者が誰もいないところで私たちの声を聞かれ、誰も私たちを見る者がいないところで私たちをご覧になられ、誰も知ることのない私たちの意志、考え、秘めごとを知られ、誰も助けとならないところで私たちの助けとなられるお方の慈悲、愛情をいただくことができるということ以上の幸運があるでしょうか。そう、ドゥアーとズィクルは、この愛情、慈悲の源への結びつきを求めることなのです。「われに祈れ。われはあなたがたに答えるであろう。」(ガーフィル章第60節)という章句は、これ以外の何を示しているといえるでしょうか。

アッラーは、型や形ではなく、心をご覧になられます。心が悪に満たされていれば、彼には価値は与えられません。だから預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は、「アッラーは、怠慢である人のドゥアーは受け入れられない。」と仰せられました。

ドゥアーとズィクルは、イバーダの魂であり、真髄です。だから、最大のイバーダである礼拝の、全てのラカートで、最もすばらしいドゥアーとズィクルを含んでいる開端章が読まれるのです。これも、信者が、ドゥアーとズィクルにいかに結びついて生きるべきかを示す一つの証明です。

本日のフトバを、聖ハディースによって締めくくりたいと思います。「主を祈念する者としない者の差は、生きている人と死者の差ほどである。」

東京ジャーミイ 金曜礼拝のホトバ「ドゥアーとズィクル」 (PDF)