東京ジャーミイ 金曜礼拝のホトバ「障害を持つということ:楽園に通じる試練」

尊敬すべきムスリムの皆様!
全能のアッラー(スブハーナ ワ タアーラー)は、次のアーヤを通してこのように告げておられます。 「アッラーの御許においては、あなたがたの中でもっとも貴い者とは、あなたがたの中でもっとも畏れる者のこと」[i]

また、預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)は、ハディースの中でこのように語っています。 “アッラーはあなたがたの姿かたちや財産ではなく、ただあなたがたの心と行いだけをご覧になる」。[ii]

親愛なる信仰者の皆様!
全能の主の御前においては、人の価値を決めるのは名声や権力、見た目の美しさや健やかさ、財産といったものではありません。あらゆる創造物の中でもっとも尊いものとされている人間は、アッラーの御前ではすでに価値ある存在であり、その価値をさらに高めることは、ただ信仰と崇拝、良い行いとすぐれた道徳によってのみ可能となるのです。したがって生まれついての、あるいは生まれた後からの健康上の問題や障害は、人生に起こりうる現実のひとつであるに過ぎず、決して人ひとりの不完全性を示すものではありません。むしろその逆です。それらは試練であり、困難であるといえますが、耐え忍び、努力を重ねることによって最終的には楽園へと至るための手立てのひとつでもあるのです。

兄弟、姉妹の皆様!
私たちに授けられたあらゆる祝福がそうであるように、人生における困難もまた、私たちにアッラー(スブハーナ ワ タアーラー)への感謝を抱かせるために起こるものなのです。人はみな、自分にできる範囲のことにのみ責任を負うのだということを忘れないようにしましょう。病を抱える兄弟、姉妹とその家族を支え、私たちの祈りや手助けを通して、彼らに自分たちが孤独でも、無力でもないと感じてもらえるようつとめることは、私たち全員の義務なのです。同様に、私たちの心の中に育まれる愛情を通して、障害を抱える兄弟、姉妹が生きやすいようにつとめ、彼らに希望を持ってもらうことも、私たち全員の義務です。問題が何であろうと、目の不自由な人のための目となり、言葉の不自由な人のための舌となり、耳の不自由な人のための耳となり、足の不自由な人のための足となり、手の不自由な人のための手となることは、尊厳と平安、 美徳の源なのです。

[i] Hujurat, 49/13.
[ii] Muslim, Birr, 34.


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