読書会コラム:ユヌス・エムレ 心の言葉 ― 第3回「何のための学問か」

読書会コラム:ユヌス・エムレ 心の言葉 ― 第3回「何のための学問か」

「イスラーム古典読書会」初回からナビゲーターをつとめてくださっているカイイム・ホジャこと山本直輝先生からユヌス・エムレの訳詩と解説 第3回が届きました。「修行僧ユヌス」とも呼ばれ、トルコ文学の祖として知られる13世紀の詩人の言葉を日本語でも味わってみてください。

今月16日の「イスラーム古典読書会-I ユヌス・エムレの世界」では、引き続きユヌス・エムレの言葉をご一緒にひも解いてゆきます。参加を希望される方は申込フォームよりご連絡ください。


ユヌス・エムレ
心の言葉

第三回:何のための学問か

文:山本直輝
画:グフロン・ヤジッド

 イブン・ハルドゥーン『歴史序説』の翻訳などイスラーム史研究において多大な功績を残した東洋学者フランツ・ローゼンタールは、イスラーム文明は何よりも知と学問を重んじてきたと述べています。ムスリムの子供たちは、幼少期にはクッターブと呼ばれる初等教育施設でアラビア語の読み書きとクルアーンの素読を学び、その後学問を志す若者はマドラサとよばれるイスラーム諸学を学ぶ寺子屋に行き、イスラーム学者(ウラマー)となるために訓練を続けます。クッターブやマドラサはほとんどの場合、国家や公的機関に所属せず、寄進によって運営される私的な教育施設です。そしてイスラーム諸学を修めたことを証明する免許皆伝(イジャーザ)も、「〇〇のマドラサ発行」ではなく、「イスラーム学者〇〇の承認により授ける」といった形をとります。学問とは国家や会社が管理するものではなく、あくまでも個々人が受け継いでいく伝統なのです。 またイスラーム社会では「学者になるには40年かかる。20年は学生として学び、20年は先生として教える訓練をして、その後からが本当の始まりなのだ」という格言があります。学問とは一生をかけた探求であることをよく示している言葉です。
 イスラームの知の営みを体現するものは「本」でしょう。本はアラビア語でキターブといいますが、キターブという単語はアラビア語圏を超えて、アフリカや南アジア、中東アジア、東アジア、東南アジアでも共通語として「イスラーム学に関する本」を指します。例えば東アジアでは漢語で書かれたイスラーム書籍は「汉克塔布(ハン・キターブ)」、東南アジアではイスラーム書籍に使われる紙が黄色かったことから「キタッブ・クニン(黄色い本)」と呼ばれます。現地の言葉が分からなかったとしても、「キターブ」という言葉が聞こえれば、そこにはイスラームの知の営みが存在することがわかるのです。イスラーム文明は「キターブ文明」と呼んでも過言ではありません。
 さらに、イスラーム文明において「本」は書物だけを指しません。スーフィー詩人たちは、神は自らを知ってもらうために、二種類の本を人間に下したと言います。一つ目は聖典、二つ目は自然です。星の輝きや波打つ海、生い茂る森や灼熱のマグマ、吹きすさぶ風など、自然界に存在する生きとし生けるものはすべて各々に固有の「ことば」で神の真理を追究していると言われます。第一回で紹介したユヌス・エムレの「黄色いお花」の詩も、そのような世界観に裏付けされているのです。またこの自然には人間も含まれています。特に人間の持つ、外からは見えないが人間を振り回して止まない「心」の中に、実は神の深淵なる真理が隠されているのだとスーフィー詩人たちは言います。スーフィー詩人たちにとって真理の探究とは、自然、身体、心は真理の探究へ人々を誘う一つの旅路でつながっています。
 スーフィー詩人たちが好んで引用するイスラームの格言に「己を知る者は神を知る」ということばがあります。知っているようでいて実は一番わからないのが自分自身です。 今回紹介するユヌス・エムレの詩も、おそらくこの格言から着想を得て書かれたものでしょう。「有名な法学書の〇〇を読みました」と自慢したり、「アッラーのご満悦のために学問に勤しんでおります」など、口では奇麗な言葉をいくらでも並べたりすることは可能でしょう。しかしユヌス・エムレにとって知とは、本をただ読むだけではなく、自己承認欲求を満たすための道具でもなく、真理を求め生きるという「人生の指針」を心に刻み付ける営みなのです。その営みは、己がどういう人間なのかを知ることから始まります。己をしかと見つめることもできない人間が、神について理解できるわけもなく、そのような人間は何を学んでも乾いてぱさぱさになったパンのように空虚で味気ない存在に過ぎないのだとユヌス・エムレは言っています。

本当の知恵とは何なのか
知恵とは己を知ることだ
もし己を知らぬなら
何のための学問か

なぜお前は学ぶのか
真なる御方を知るためだ
学びはしたが 悟っていない
まるで乾いたパンのようだ

「学び悟った」などと嘯くな
「神のために生きた」などと戯けるな
真なる御方を知らぬなら
全ては塵芥の無駄と化す

神より下されし四つの書*
根源の「阿」を指し示す
しかし汝は阿も知らぬ
何のための学問か

ユヌス・エムレはかく語る
望むなら千度マッカに参るがいい
しかし心の探求こそ
何にも勝る巡礼ぞ

Yunus Emre der hoca
Gerekse bin var hacca
Hepisinden iyice
Bir gönüle girmektir

İlim ilim bilmektir
İlim kendin bilmektir
Sen kendin bilmezsin
Ya nice okumaktır

Okumaktan murat ne
Kişi Hak’kı bilmektir
Çün okudun bilmezsin
Ha bir kuru ekmektir

Okudum bildim deme
Çok taat kıldım deme
Eğer Hak bilmez isen
Abes yere gelmektir

Dört kitabın mânâsı
Bellidir bir elifte
Sen elifi bilmezsin
Bu nice okumaktır

Yunus Emre der hoca
Gerekse bin var hacca
Hepisinden iyice
Bir gönüle girmektir


*「神より下されし四つの書」:詩編、トーラー、福音書、クルアーンのこと。

山本直輝(やまもと なおき)

1989年岡山県高梁市出身。 同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。 現在はマルマラ大学大学院トルコ学研究所助教。主な翻訳に『フトゥーワ―イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)。『スーフィズム入門』(集英社新書プラスにて連載、2019年~2022年)。


イスラーム古典読書会 – I ユヌス・エムレの世界
4月16日(土)16:00 ~ 17:00
場所:オンライン
ナビゲーター:カイイム・ホジャ 参加申込はこちらをクリックしてください(Linktreeのサイトが開きます)

【東京ジャーミイ文書館(準備中)主催】4月のイスラーム古典読書会 I, II & III
ユヌス・エムレ・インスティトゥート